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註(一〇)この問題に關しては Utitz, Grundlegung der allgemeinen Kunstwissenschaft, 1914, I, S. 74ff. および Volkelt, System der Aesthetik, 1925, III, S. 3f. 參照。

(一一)味覺、嗅覺、觸覺に關する「いき」は、「いき」の構󠄃造󠄄を理解するために相當の重要󠄃性をもつてゐる。味覺としての「いき」に就ては次󠄄のことが云へる。第一に、「いき」な味とは、味覺が味覺だけで獨立したやうな單純なものではない。米八が「春色惠の花」のうちで『そんな色氣のないものをたべて』と貶した「附燒團子」は味覺の效果を殆んど味覺だけに限つてゐる。「いき」な味とは、味覺の上に、例へば「きのめ」や柚の嗅覺や、山椒や山葵の觸覺のやうなものの加はつた、刺戟の强い、複雜なものである。第二の點として、「いき」な味は、濃厚なものではない。淡白なものである。味覺としての「いき」は「けものたなの山鯨」よりも「永代の白魚」の方向に、「あなごの天麩󠄂羅」よりも「目川の田樂」の方向に索めて行かなければならない。要󠄃するに「いき」な味とは、味覺のほかに嗅覺や觸覺も共に働いて有機體に强い刺戟を與へるもの、しかも、あつさりした淡白