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Page:Iki-no-Kozo.djvu/162

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め」を得た「媚態」が「意氣地」の自由に生き(二九)るのが「いき」である。人間の運󠄃命に對して曇らざる眼をもち、魂の自由に向つて惱ましい憧憬を懷く民族ならずしては媚態をして「いき」の樣󠄂態を取らしむることは出來ない。「いき」の核心的意味は、その構󠄃造󠄄󠄄がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全󠄃なる會得と理解とを得たのである。


註(一七)Maine de Biran, Essai sur les fondements de la psychologie(Oeuvres inédites, Naville, I, p. 208)。

(一八)Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil IV, Vom höheren Menschen.

(一九)Verlaine, Art poétique.

(二〇)ベツカー曰く『美的のものの存在論は、美的(卽ち、藝術󠄃的に創造󠄄する、また美的に享樂する)現實存在の分析から展開されなければならぬ』