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對象』としての藝術󠄃品の考察に基いて『粹の感』の說明が試みられる(二四)。その結果として、『不快の混入』といふごとき極めて一般的、抽象的な性質より捉へられない。從つて「いき」は漠然たる raffiné のごとき意味となり、一方に「いき」と澁味との區別を立て得ないのみならず、他方に「いき」のうちの民族的色彩󠄃が全󠄃然把握されない。さうして假りにもし「いき」がかくのごとき漠然たる意味よりもつてゐないものとすれば、西洋の藝術󠄃のうちにも多くの「いき」を見出すことが出來る筈である。卽ち「いき」とは『西洋に於ても日本に於ても』『現代人の好む』何ものかに過󠄃ぎないことになる。しかしながら、例へばコンスタンタン・ギイやドガアやフアン・ドンゲンの繪が果して「いき」の有するニユアン