Page:Iki-no-Kozo.djvu/146

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された個々の槪念契󠄅機をもつて「いき」の存在を構󠄃成することは出來ない。「媚態」といひ、「意氣地」といひ、「諦󠄂め」といひ、これらの槪念は「いき」の部分󠄃ではなくて契󠄅機に過󠄃ぎない。それ故に槪念的契󠄅機の集合としての「いき」と、意味體驗としての「いき」との間には、越えることの出來ない間𨻶がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潛勢性と現勢性との間には截然たる區別がある。我々が分󠄃析によつて得た幾つかの抽象的槪念契󠄅機を結合して「いき」の存在を構󠄃成し得るやうに考へるのは、旣に意味體驗としての「いき」をもつてゐるからである。

 意味體驗としての「いき」と、その槪念的分󠄃析との間にかやうな乖離的關係が存するとすれば、「いき」の槪念的分󠄃析は、意味