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Page:Iki-no-Kozo.djvu/145

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合を趣味といふのである。ニイチエは『愛しないものを直ちに呪ふべきであらうか』と問ふて、『それは惡い趣味と思ふ』と答へてゐる。またそれを『下品』(Pöbel-Art)だと云つてゐる(一八)。我々は趣味が道󠄃德の領域において意義をもつことを疑はうとしない。また藝術󠄃の領域にあつても、『色を求むるにはあらず、ただ色合のみ(一九)』と云つたヴエルレエヌと共に我々は趣味としての色合の價値を信ずる。「いき」も畢竟、民族的に規定された趣味であつた。從つて「いき」は勝󠄃義における sens intime によつて味會されなければならない。「いき」を分󠄃析して得られた抽象的槪念契󠄅機は具󠄄體的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過󠄃ぎない。「いき」は個々の槪念契󠄅機に分󠄃析することは出來るが、逆󠄃に、分󠄃析