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 伊集院町の地位たる鹿兒島市と西薩地方との中間連鎖に當り、古き歴史かがやかしき傳統と淳朴の美風とを繼承す。史を按するに既に早くも平安時代有名なる歌人紀貫之の孫能成郡司となり此地方を知行したるより見れば島津家の高祖忠久公が三州の守護職となりし以前に遡る。能成の子孫相繼ぎ八代清忠に至りその統絶ゆ是を古伊集院家とす。

 鎌倉時代建治弘安の頃島津久兼伊集院に移り一宇治城に入り、爾來伊集院を以て氏と爲す。吉野朝時代延元二年征西将軍宮懐良親王の前軀たる三條侍從季泰が薩摩に入り勤王の軍を募るや、伊集院氏第四代忠國率先その陣營に馳せ参じ谷山、肝付等の諸族と呼應して義兵を擧げ特に興國三年懐良親王薩摩に着御せらるるや三州に於ける南朝の勢大に振ふに至りたりき。

 戦國時代島津日新公その子貴久公に至り、伊集院に居城し一時藩廰をここに置き三州統一の業漸く成る。爾來此地藩主の直轄地となる。その後義弘公當城に居りし關係より徳重村に妙圓寺を創建す。開山は石屋眞梁和尚なり。慶長九年義弘公之を菩提寺となし殿堂門廡悉く新に營まれ公自身の木像を安置し歸依頗す厚かりし。後世九月十五日義弘公の關ヶ原の戦役を記念するため鹿兒島城下をはじめ各近隣の村より甲冑に身を堅め参拝するもの絡釋相次ぎ爾來薩