Page:Ijuin-cho shi.pdf/39

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

の資料に依り知り得る事は本町の財政が歳入、歳出共に十倍の躍進を爲したと言ふ事實である。先づ歳出に於ては經常部に於けるよりも臨時部に於ける其れの方が稍々増加率高く歳入に於ては税収入に於て約六倍の増加率を示し税外収入に於ては二十數倍の増加率を示す。此の傾向は今後持續されて行くものと推察さるゝ其れは歳出に於ては經常的補助金等の増加或は町村の發展に伴ふ臨時的事業の發生等に基く臨時的支出の増加が原因するものであり、歳入に於ては小學校教員俸給國庫負擔或は國、縣、補助金の増額地方財政補給金制度の確立等に依る収入が税外収入を多からしめるのである。然し他の方面に於て増加率甚しきに拘らず税収入に於て僅に六倍の増加は尠少に過ぐるの感があるのであるが、本町は近年特別税戸數割の他は制限外課税を爲したる實例なく、常に制限滿度主義の課税が何時まで持續し得らるゝやは疑問であつて近き将來に各税共制限外課税の時が來るものと思惟されるのである。

明治三十六年壹萬九百餘圓の歳出が日露戰役後漸次膨張し明治四十四年迄は壹萬圓臺に下り、歐州であつたものが明治四十四年に一躍五萬圓を超して居る。是は町内各小學校の改築に基因するものである。其後貮萬圓臺に下り、歐洲戦争の影響する好景氣は大正七年に至り三萬圓台に上り、八年より九年にかけて五萬、六萬、七萬、八萬と躍進を告げたが大正十二年には十六萬四千圓に上つて居る。併し是は縣立伊集院中學校建築の爲の經費であつて、工事は大正十五年頃迄繼續されたのであるが歳出は漸次下降し、昭和二年には九萬六千圓となつて居る。以後九萬圓台より十萬圓或は十一萬十二萬に上つた事もあるが、好景氣時代の反動襲來と共に金解禁の爲緊縮時代をも經過して大抵十萬圓台の歳出總額で納つて居る。而して昨年の小學校増改築工事の爲めに十六萬圓台に上つたのであるが、今年は又十一萬圓台に下つて居る。

二 町債

本町町債は明示四十三年に農工銀行より小學校改築の爲七千七百圓を借入れた以外は其の事例に乏しいのであつて彼の中學校建築に巨費を要した時に於ても町民の寄附金と八千二百四圓の町費運用金を以て充當した位であるが、昭和六年農山漁村振興の爲に政府の政策として奨励されたる耕地擴張改良事業及養桑改良事業の爲に八千二百圓を借入れたるを手初めに昭和七年農村匡救土木事業費として千五百四十一圓、昭和八年農村匡救林道開設費として九百四十圓、同年農村匡救土木事業の爲三千九百六十三圓、昭和九年自作農創設資金として六千五十圓、同年農村匡救土木事業の爲千六十五圓、昭和十年早害救濟土木事業の爲七百二十五圓、昭和十三年小學校改築の爲二萬八千圓、總計其額五萬四百八十四圓に達した。是等は順次年次計畫により償還され現在(昭和十三年)未償還金四萬二千二百八十四圓を有する尚此町債は将來小學校講堂改築を控えて居るので實に膨張すべき運命にある。
基本財産運用、基本財産の運用は從來屢々爲された様であるが、現在償還中に在る者は伊集院中學校建築費八千二百四圓、伊集院校敷地購入費六千二百二十四圓、屠場建築費七千九百八十圓、青年學校建築費二千九百三十圓にして是等の末償還額一萬四千八百七圓である。
町有財産は別表の通である。