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所在地となつた。次いで大永六年第十四代の藩主島津勝久は伊集院を島津忠良(日新斎)に領知せしめたが、同七年五月忠良が加治木征討のため出軍したる留守に乗じ島津實久は伊集院を攻略し町田中務久用をして之を守らしめた。天文五年三月第十五代の藩主島津貴久は其の實父島津忠良と共に伊集院城を攻撃して之を奪還し同十四年島津貴久が田布施より伊集院城に入り同十九年十二月鹿兒島に遷るまで此の地に藩廰を置き三州統一を策した。爾來伊集院は藩主の直轄となり地頭をして統治せしめ、明治維新に及んだ。封建時代藩主の御假屋は下谷口に在つたが、寶永六年下伊集院村苗代川に移し下谷口には地頭館が置かれた。地頭館は薩藩獨特の外城制度の爲政者地頭の役所である。

 薩藩獨特の行政制度であつた外城トジヤウ制度を都城トジヤウ又は外城ソトシロと混同し、或は地方に於ける聚落と誤解する學者もあるが、是は城郭と誤認し又は麓の武士部落のみを知る半解の説である。

 外城は城郭ではあるが外城制度は城郭のみではなく外城を中心とする一地域の爲政區域である。前記都城トジヤウ外城ソトシロとの混同誤解につき簡單なる説明をなし藩獨特の行政機構を明らかならしめよう。

一、外城(トジヤウ)と都城(トジャウ)

故、大槻文學博士大言海に説明して曰
ごじやう  都 城
(一)都市の郭のある處
(二)薩摩にて在郷の士族の聚落

 右の一は可なるも(二)は都城と外城と混同し且つ其の説明が適切でない。抑都城なるものは考古學者が邑城とも稱するもので大陸地方殊に支那に於て發達した城郭で年の住民全部を抱擁守護する爲、住宅地の周圍に圍壁を繞らしたものである。斯く住民地全部を城壁で圍むのは民族保護の爲である。即ち大陸地方では異民族が互に境を接し其の戦争は同一民族内に於ける政権争奪よりも民族の生存競争が激しく異民族を殺戮して自己民族の繁殖を計らんとする種族争闘が多かつた。夫故に住民地の周圍に城壁を設けて住民を保護し、戦争に當りては附近の農民をも収容し得るやうに城内に若干の空地を設けたものである。

 我が國に於て此の種の都市を經營せられたのは第三十七代斎明天皇の御代で帝都難波京の周圍に濠を繞らされて支那式都市の形に模せられたのであるが、是は城郭ではなく唯支那の都市の形を採つて外観を飾られたのに止るのである。第三十八代天智天皇の御代に始めて實用的戦用に供する都城を筑紫に築造せられた是が日本に於ける都城の始にて亦終りである。其の後持統天皇が大和の南部飛鳥の地に藤原京を經營せられ元明天皇は平城京に經營せられ、支那の帝都に倣らひ方形にして四方に門を設けたる都を建設し、以て帝都たるの威観を備へしめられたが、皆形上都城であつたのである。

 前述天智天皇の四年(紀元一三二五年)に筑紫に大野城と椽城を築かれたのは異民族に對する防備の必要から起つた戦争用城郭である。斯くの如く異民族に對する城郭の必要となつたのは朝鮮の新羅が勃興して任那の日本府も滅び