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入來院文書の薩摩國領主目録に

日置北郷 郡司 小藤太貞澄
日置庄 下司 小野太郎家綱

 以上の如く院司といふ記事はないのであるが、建久八年十二月調伊集院太田本主、在廰道友、末永院司八郎清景と書いてあることもあるから、誤記といのみいふことは出來ぬ。併し伊佐郡の内に牛屎院と祁答院の二つが統轄されてゐることから考へても郡と院とが同等の地方制度であつたことは考へられない。抑我國にて國縣を分ちて邑里を定め各長官を置かれたのは成務天皇の御代にて孝徳天皇は大化二年に國郡の制に改め、國司郡司を置き軍は三等に分ち四十里を大郡三十里以下四里以上を中郡、三里以下を小郡と郡毎に郡司を置かれたのであるが、大寶令にては之を改め郡を五等に分ち、二十里以下十六里以上を大郡、十二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、二里以上を小郡とせられた。此の里といふのは後世の郷と同一のもので、五十戸ある部落を里と稱するのである。武家の世となつて郡と郷とを混同し、或は庄(日置庄、伊作庄の如き庄)の下に郡を置くなど此の制度が亂れて來た。豊臣秀吉は天正十九年諸國に令して郡、里を北圖を提出せしめ、庄郷の名を廢し郡を以て村を統ふべきことを命じた。其の後江戸時代にも廔國郡の圖を進達せしめたことがあるが、院なる行政區劃があつたことは國史上見えぬことである。延喜式に薩摩國十三郡三十八郷と記されてゐるが院のことは附記されてゐない。要するに三州に院といふ地方が多いのは倉院から轉じて其の倉院地方の字名となつたものであるまいか。郡司の役所を郡家、郡院といふたことは明らかであるから此の郡院から轉じたものであらう。例令宮崎縣の都城が築かれて其の附近一帯は都城と呼び、大隅の國分は國府の所在地であつたから國府が國分となつたのと同じであらう。

 尚薩、隅、日三州は都を遠く隔たりて荘園も多く徴租も頗る寛大で自由な地方であつたから、郡里の制度も亂れたものであらうとも考へられるゝが、前記孝徳天皇の大化二年から五十六年後の文武天皇の二年には朝廷から使を南島に遣はして國を覓めしめ三年には多褹島(種子島)、掖玖(屋久)、奄美(大島)、度感(徳之島)が入貢し王政も稍々普及してゐるのであるから三州のみに院といふ行政區劃があつたとも思はれない。前述の如く或學者は郡司ともいひ院司ともいふと論ずるも藩史上に現れてゐないのみならず、院司なる職は地方役員の名稱でなく、畏くも院中に置かるゝ職員のことで、別當、執事、年預、判官代、主典代、藏人、北面、西面等々を總稱するものである。建久八年の薩摩圖田帳に記載する薩、隅、日三州の院を掲ぐれば

薩摩國
山門ヤマト莫禰アクネ入來イリキ祁答ケドウ牛屎ウシクソ市來イチキ伊集イズ知覧チラン給黎キレイ
大隅國
蒲生。吉田。横川。栗野。小河。深河。財部。鹿屋。串良。禰寝ネシメ
日向國
三俣。島津。眞幸マサキ穆佐ムカサ救仁クニ飫肥オビ櫛間クシマ。新納。

 次に薩摩國に於ける郡名が如何に變化したかを知るために東京帝國大學史料編纂所調査の國郡沿革一覧表を摘記して見よう。