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そのすり物は先年伊集院青年學校長藏元氏へ送り置きたれば或は青年學校に今もあるやも計られず。

七、三州三本寺の一つ荘厳寺と傑僧、賢雄法印の最后

 伊集院には往時有名な寺院が多かつた。そして一種の聖地として遍く天下に知られてゐた。 即ち妙圓寺を始め荘厳寺、廣済寺、梅岳寺、龍泉寺、善福寺、破鞋庵、直林寺、雪窓院、光明院平等寺、圓通庵、報恩寺、観音堂、地藏堂、釋迦堂等枚擧に遑ない程多いが、其の中でも分けて有名なのは、猪鹿倉に建立されてゐた大勝山聖御院荘厳寺である。

 此の寺は今より四百九十七年前嘉吉元年十月御花園天皇の時代に良範上人と言へる和尚が開山したもので、其の前に一吽上人と呼ぶ和尚が、信州善光寺の彌陀三尊を模鑄した佛像と弘法大師作の不動明王の像を奉持して、良範上人に與へ而も小野派三寶院の法流を授け國民安泰を祈祷し、島津家の祈願所として有名な寺院であつた。

 往時は更に十二の坊舎があり、神護院、平等寺、内田坊、太田坊、宮原坊、宮田坊、土橋坊、蓮花寺、小原坊、悉地院、牧迫坊、ニノ宮坊、等が諸所に建立され、頗る壮観を極めてゐた。而して往時薩隅日三州の密門三本寺の一つで伊集院荘厳寺、坊ノ津一乗院、鹿兒島大興寺がそれであつた。

 島津家十五代の大守貴久公は天文十四年三月時の伊集院郷領主伊集院長門守忠國を伊集院一宇治城に攻め、之れを攻落し、貴久公は田布施城より一宇治城に移り、時の荘厳寺第九世俊盛法印に歸依し、天文十九年十二月貴久公は伊集院城から鹿兒島に移り、内城に居を定め、俊盛法印を召して祈願の事を命ぜられ、後荘厳寺に安置した弘法大師作不動明王像を鹿兒島に移し、大乗院を創立して此處に安置せしめ、俊盛法印を開山とし、荘厳寺を一乗院の末寺とした。それ程此の荘厳寺には高僧が多かつた。

 分けて有名なのは荘厳寺の第八世の住持賢雄法印である。法印は度々召され島津家に参上し、祈願の事に専念し其の密宗法力は遍く三州に知られてゐた。時しも天文十三年甲辰八月のことである。大守伯囿公の夫人(入來院弾正重聡の女、法名先姫雪窓妙安大姉)が病氣の時分ー賢雄法印は日夜病氣平癒の祈願を罩めたが、其の甲斐もなく八月十五日逝去された。其の時鹿兒島城下の山伏行者は、平素から賢雄法印の出麑を心よしとせず、この大姉の逝去を好機として、賢雄法印が呪詛に依つて、大姉は他界されたと讒訴した。 そこで大守の怒に觸れ、賢雄法印の斬殺方を、家臣島本某(此の子孫市内に現存するにつき假名とす)に命じ、島本は伊集院に出發したが、その後で無罪なる由判明したるに依り、大守は更に家臣木下某(此の子孫市内に現存するにつき假名とす)に討手差止め方を命ぜられた。木下某は、早馬との事で、自宅で冷飯一杯吸つて飛出した關係で、時刻遅れ、一方伊集院荘厳寺に在つた賢雄法印は、早くも法力に依つて、討手の來るを覺知し早々に旅仕度して、寺を出で、伊集院町上町通り(現在伊集院署附近)を勇々として遁れてゐる際早くも討手島本は迫つた。然るに差止め役の木下某は恰度待て坂(一名万右衛門坂)に來た時大音聲に「斬殺差止めだぞ」と呼ばはつたが、討手島本は抜く手を見せず、法印に斬り付け遂に首討落して仕舞つた。この刹那差止め役木下某の歯と言ふ歯は片つ端から崩れ落ちたと言ふ奇蹟がある。之れ賢雄法印の祟りであると言ひ、討手島本某の子孫は、其の後家は斷絶し、差止役の木下某の子孫は代々三十才後になると、不思議に前歯が崩れるそうである。今この子孫は、毎年賢雄法印の墓詣りに來ると言ふことである。

 賢雄法印の霊は地藏菩薩として崇め(現在安樂呉服店裏庭に石地藏尊像安置す)後世の人長く崇敬し今日に至つてゐる