Page:Ijuin-cho shi.pdf/105

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

の出づるといふ一の辻堂に一夜を明かすことゝなつた。然るに夜半陰風起り山岳鳴動して二つの鬼が現はれ法智妙圓々々々々と叫びつゝ一人の少女を追ひ廻し打擲呵責した少女は其の痛苦に堪へ兼ね泣き叫ぶ様誠に見るに忍びないものがあつた。

 翌朝村人は和尚の安否に氣づかひ辻堂に來て見れば和尚は無事で前夜の有様を斯くと物語つた。 村人は驚いて言ふに其の少女は恐らく領主の姫君ならん。 領主は先日姫君を亡ひ妙圓と諡した。これが未だに佛果を得ないものであらうと。 この由を領主に申出でたので大内義弘は不自然に思ひ、和尚に請ふて共に辻堂に宿り其の實況を見て是は吾が女なり願くは法を修して女を救ひ給へといふので和尚は法を修すること暫時、二鬼叫んで日佛教慈悲廣大にして汝天に生ず吾輩も亦法味に霑ふと言ひ終つてかき消すやうに見えずになつた。 大内義弘深く石屋和尚を尊崇し、和尚の爲に寺を建てゝ女の冥福に資せんと請ふたけれども石屋和尚は固辭して薩摩に歸つた。

 和尚の歸國後大内義弘は使を薩摩に遣はして元中七年(北朝の明徳元年)伊集院領主伊集院久氏に請ふて伊集院に一寺を建立し、石屋和尚を開山として、山號を法智山、寺號は妙圓寺とし、妙圓大姉の菩提寺としたとのことである。

三、坂木六郎の劍道

 坂木六郎は藩政の末期に於ける薩藩有數の劍客である。維新勤王の熱血兒、有馬新七の父四朗兵衛の弟である(有馬新七傳参照)六郎は十九歳の時江戸に出て神影流で有名なる長沼亮卿の門に入り修業五ヶ年免許皆傳を得たもので文武の道に長じた伊集院郷の傑物であつた。

 或日、六郎は麁末な服装にて門の内外を掃除して居つた。 時に菅笠を冠つた偉丈夫が武者修行者と名乗つて訪ね來り坂木を見て下男と勘違ひし、先生は内かと尋ねたので坂木は下男と成りすまし自分坂木先生の武衛を稱揚し先生と立合はるゝ前に私と一度立合ひますようといふが早いか、箒で修行者の頭を二つ三つ擲りつけ身を躍らして輕々と塀を飛び越え門内に入つてしまつた修行者はこの早業に呆然とし、暫時其の儘立ちつくしア、流石は坂木先生の下男だけあつて優れた腕前だ。下男でさへあれ程であるから坂木先生は嘸達人であらうと氣を呑まれて立ち去つた。

四、龍の化け石

 昔大田に疊十二疊位の大きな岩があつて傍らに池があつたので附近の子供は此の池で水泳をし、岩の上に登っつて遊んでゐた。 子供等が此の岩を叩けば岩から白いネバ汁が出るので皆が不思議がつてゐた。 夫のみならず池で洗濯して岩の上に干しておけば其の洗濯物が時々紛失するので怪しい噂が立つた。或日一天遥かにかき曇り風雨雷鳴物凄く一團の黒雲が此の岩の上を掩ふた。 暫時くして風雨は止んだが、岩は何處へ行つたか形も見へなくなつた。 この奇蹟を見た村人は岩に化けてゐた龍が時を得て昇天したのだと言ふやうになつた。

五、臆病者

 或臆病者が伊集院から鹿兒島に行く途中で行人稀れな權現山にさしかゝつた時犬が頻りに吠えるのでソーラ來たとアレは狐に吠えるのに違ひないとビクもので急ぎ行く途の傍の藪の先で百姓が畑の草を採つて臆病者の方に投げた。臆病先生、アツ矢張り狐の惡戯だと魂も身にそばす通り過ぎ權現山の境に來て赤ん坊を背負ふた子守に會ひ、赤坊の泣くのを聴いてアヽコンドは赤ん坊に化けやがつたと逃げ出したが、行き先きに籠を擔いだ男が行くのを見てウ