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人忠顕彰會の會頭に推され過去の滿洲事變、並に今次の支那事變における殉國将士の列傳を編纂し、其の忠勇義烈の偉績顕彰事業に貢献の功勞多大なるものとして表彰せらるゝに至つた。

 曾て彼が現役を退きたるを惜み、朝鮮總督に推擧せんとする運動の起つた事があつたが、當時函嶺に在つた彼は一絶を賦して之を謝絶した。

湘南風物絶炎塵   函巌白雲宜洗神
孤杖悠々嘯堅土   緑蔭深處鳥聲頻

 斯の如く彼は名利には頗る恬淡であつた。

 昭和九年四月彼は昭和六年乃至九年事變の功を以て從軍記章を下賜せられ、陸海軍兩大臣より武神像を賞賜せられた。又同十一年には帝國飛行協會總裁梨本宮殿下より名譽會員に推薦せられた。以て彼が退隠後と雖へども社會的並に國家的事業に如何に忠實であるかを知るに足らん。 彼は實に伊集院が生んだ傑物である。昭和十四年一月四日病に罹り薨去。當時正三位勲一等功三級なりしを病篤きの報天聴に達するや特に從二位に叙せらる。

三十四. 西田 ツチ女

 西田ツチ女は中伊集院村士族、西田孝左衛門の長女にて主家に仕へて忠實であつたので、鹿兒島縣知事は之を褒賞した。今其の表彰文を掲げて其の一端を窺ふことゝする。

古伊集村士族西田孝左衛門長女

西 田 ツ チ


 稟性順良明治二十六年三月山本忠輔の家に仕ふ時に忠輔の母手足の自由を失ひ常に病蓐に在り戸主夫妻は久しく家に在らず獨力を以て之が看護に從ひ湯藥奉養甚力む終に不治の病となるも毫も倦怠の色なく殊に明治三十二年暴風の際は居宅の顚倒を恐れ、一時難を庭の一隅に避けしめたるも病者苦痛に堪へす、其の意に從ひて危險を冒し之を擁して家に歸臥せしめ身を以て之を掩ふ此時怱ら家屋壊倒せしも難を蒙るに至らしめざる等、志操を變せざること十年一日の如し洵に奇特とす。 依て爲其賞金八圓下賜候事

明治三十五年九月十二日


第五章 傳説

一、南北朝合一と石屋禅師

 皇統緒を分ちて南北に對立すること五十七年明徳三年(紀元二〇五二年)閏一〇月五日後龜山天皇より後小松天皇に神器を御授けになり御一和のことが成つた。

 此の南北朝御一和の次第を次のやうに言ふ者がある。

「初後小松天皇より南北朝合一のことを石屋和尚に命ぜられ、石屋和尚は後龜山天皇に謁し妄執を離れて眞如の月を見られんことを奏上した。 後龜山天皇大に御感悟遊ばされたので石屋和尚は大内義弘をして後龜山天皇を奉迎せしめた」云々。