Page:HōjōTamio-First Cry in Blizzard-2002-Kōsei-sha.djvu/2

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ゐる。時計を見るとまだ二時を少しまはつたばかりであつたが、悪臭の澱んだ室内はたそがれのやうに薄暗かつた。

 寝台はずらりと二列に並んで、絆創膏を貼りつけた頭や、パラフィン紙で包んだやうにてらてらと光つてゐる坊主頭や、頭から頸部へかけて繃帯をぐるぐる巻いた首などが、一つづつ蒲団の間から覗いてゐる。頭の前に取りつけられた二段の戸棚になつてゐるけんどんの上には、薬瓶や古雑誌などが載せられ、寝台の下には義足や松葉杖が転がされてある。その他血膿のにじんだガーゼ、絆創膏の切れはしなどがリノリウムの敷きつめられたゆかにぽつぽつと散らばつて、歩いてゐる私の草履にからみつくのであつた。入口のところまで来ると私はちよつと立停つて外を眺め、すぐそこに見える狂人病棟の窓に、この寒いのに明け放つて外へ半身をのり出し、なにやら呟きながらげらげらと笑つてゐる狂つた老婆を硝子越しに見つけると、引返してまた歩き出した。途中、部屋の中ほどまで来ると私はちよつと矢内の寝台を覗いて見、まだ睡つてゐる彼をたしかめると、入口とは反対側の奥まつた硝子戸まで歩をすすめた。硝子戸にぶつかるとまた立停つて考へたが、私は思ひ切つてそれを開き、廊下へ出た。廊下を挟んでこちらに向いてゐる小さな産室が二つそこにある。孕んだまま入院して来た女たちがここで産み、生れた子供は感染しないうちに自宅に引き取られ、或は未感染児童の保育所に送られるのである。廊下に立つて、私はその部屋を一つ一つ覗いた。部屋の大きさは畳にすれば八畳くらゐのものであらう、各室とも二つづつの寝台が並んでゐる。妊婦は今一人、右手の部屋にゐるきりで、左の部屋は空になつてゐ、がらんとした寝台の上を寒々とした風が流れてゐた。

 妊婦は窓の方に向つて坐り、生れ出る子供の産着でも縫つてゐるのか、大きな腹をかかへるやうにして手を動かしてゐる。彼女の腹は臨月であつた。昨日も陣痛を訴へて医者を走らせたりしたのであつたが、ここへ来るまで百姓をしてゐたといふ彼女の丈夫な体は、痛みが停るともう横になつてはゐないのであつた。彼女の病勢はもうかなり進んでゐて、小豆くらゐの大きさの結節が数へ切れぬばかりに重なり合つて出てゐる顔面は、さながら南瓜のやうである。頭髪は前額部の生際からいただきのあたりへかけてすつかり薄くなり、勢のない赤茶気たのが握り拳のやうに後頭部にくるくると巻かれてゐる。彼女は何時ものやうに小さな声で、自分の故郷に伝はつてゐるのであらう民謡を口吟くちずさんで、調子を合せ、上体を小刻みに揺り動かしてゐるのが、背後から見る私の眼にも映るのであつた。今までも彼女がこの唄を口吟んでゐるのを幾度も聴いたことがあつた。彼女は恐らくこの唄声以外には一つも知らぬのであらう。声はほそぼそとしてその顔に似ず美しいものであつたが、じつと聴いてゐると胸に食ひ入つて来る呻きのやうなものが感ぜられ、かへつてなまなましい苦痛が迫つて来る。それは長い間いためつけられた農婦が何ものかに向つて哀願し訴へてゐるやうであり、また堪へられぬ自分の運命の怨嗟のやうにも聴えた。私はその唄を聴くたびに千幾百年の長い癩者の屈辱の歴史が思ひ浮んで、暗い気持になつた。

 雪が激しくなつて来た。私は部屋の前を離れると廊下の窓側によつて外を眺めた。雑木の幹に白い粉が吹きつけて、半面はもう白く脹らんで見える。空を仰ぐと、幾万の蚊が群がり飛びながら地上に向つてなだれ落ちて来るやうである。ふと気がついて見ると、さつきの唄声はやみ、その代りに小さくすすり泣く声が聞える。また泣き始めたのだ。彼女の唄声が何時の間にか泣声に変つてゐるのを私はもう何度も聴いてゐた。常は病のことも忘れ腹の中に成長しつつある小さないのちに母らしい本能的な喜びを感じては口吟み始めるが、ふと院外そとに暮してゐる夫を思ひ出したり、自分の病気が気にかかつて来たりすると、頭がこんがらがつて泣き出してしまふのであらう。彼女が殆ど同時に泣いたり笑つたりするのも珍しくはなかつたのである。矢内の寝台から三つばかり離れて彼女と同年、すなはち三十四五の女が肋膜を病んで寝てゐるが、彼女はそこへ来てよく話し込んで行くことがある。二三日前もそこへ来て、腹の子供に与へる名前のことなどを語り合つては、大きな、つつ抜けた声で笑つてゐたが、不意に黙り込んだかと思ふと忽ちぽろぽろと涙を流し始めて、

にしを育てることも出来ねえだよ。汝ァお母ァを恨むぢやねえぞ、お母ァは好きでれえ病になつたぢやねえ。んだからな、んだからな、汝ァお母ァを恨むでねぞ……。」

 と腹に向つて口説きながら産室へ駆け込むのであつた。また、彼女は夜中に姿をかくして附添夫たちを騒がせたことも二三度あつた。彼女は寒さに顫へながら雑木林の中でぼんやり佇んでゐた。附添夫がやうやく見つけて、帰らうと言ふとおとなしく帰つて来る。なんのためにあんなところで立つてゐたのかと訊いても、彼女はただ黙つてゐて返事もしなかつた。首でも縊る気だつたの