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 夜、於泉君の所へ行き、文学に就いて種々話す。


 十月二十三日。

 このやうな日ばかり続けて、これは何といふことだ。本を読むといふでなし、ものを書くといふでなし、野球ばかりに日を奪はれて――。先日Mさんと約束した小説の件はどうすればいいのだ。川端先生からもお手紙を戴いて作品は見て下さるといふに、早く何か纏めねばならぬ。

 兎に角リーグ戦も自分のチームは終つた。これから冬までに、四五十枚のもの二つは書かう。さうでないと自分は生きてゐるのやら死んでゐるのやら判らなくなる。

 H兄が退院する。明日。

『呼子鳥』の第三号に童話六枚ばかりを書いた。


 十月三十日。

 H君が退院されたのが二十四日、それからこつち、一週間近く、丸切り何も書いてゐない。書かうといふ気持は常に頭の中を往来し、書かねばならぬと責められながら、何一つ書けない。考へてみるとたつた五枚、随筆を書いて『レツェンゾ』に送つたきりだ。

 気分といへば丸切り灰の中へ頭を突込んでゐるやうな日ばかりだ。何にしてもつらいことだ。

 今朝九時半頃内科へ行き五十嵐先生に胸を診て貰ふ。ロクマクに少々水が溜つてゐると言はれた。先日から痛い痛いと思つてゐたら――。

 それから体中に無数に熱瘤といふ奴が出来た。先生の言ふには、まだ熱瘤といふものは学界でも究明されてゐない。光田先生及びその門下の先生達は癩菌が大楓子に負けて、死にもの狂ひになり、一種の毒素を出すために発生するのではないか、その証拠に病気の古いものにはめつたに出来ず、これが出来てから良くなつて行く傾向があるといふ。その時なんとかいふ術語らしいもので説明したが、自分は失礼と思ひながら先生を観察する面白さに気をとられてゐて忘れてしまつた。

 先生の眼の動きは誠にデリケートである。横にゐる看護婦の松本さんと較べて考へてみると、実に人間の個人差といふものは異常なものだと思つた。僕が何時か、お喋りをしてゐる時の先生の眼よりも聴診器をあてて首をひねつてゐる時の方が先生には良い調和がある、又立派にも見える、といふ風なことを言つたことがあるが、実にその通りで、その眼は誠に鋭い。その鋭さの中に、陰影と言はうか、何と言はうか、とまれ苦労の残りが浸みてゐる。先生は若い時随分苦労をしましたねと、訊ねてみようと思つたが、失礼に思はれて止めてしまつた。恐らく僕のこの観察に誤りはないだらうと思ふ。


 十一月十八日。

 この日記は五号病室で書いたものである。熱瘤のために今月六日に這入つたのである。それ以後今日まで十三日目になるが、熱は三十八度乃至九度を上下してゐて、気分すぐれず大変弱つた。今度出る詩集 (この院内の患者達の組織する詩話会の第一詩集である) にも一篇も書けなかつた。勿論まだまだ自分に詩など書けないことは判り切つてゐる。目下のところでは、もう院内のものには何も発表したくない。自分には詩にしろ散文にしろ発表するやうなものは何一つとして書けないのだ。もうそれは自明の事だ。

 いくら書いたつて下らぬものを、自分の気にも入らぬものを発表する気になど丸切りなれない。それよか今のうちにこつこつ勉強して次の日の勝利に具へるに限る。昨日もM君が来て呉れて、是非作品を出して呉れと言はれたが、自分には書けぬと言つた。気の毒でもあるが仕様もないことだ。といふやうな訳で何一つ書かなかつた。

 ところが今日になつて熱が下つた。三十六度三分。平熱だ。これなら久しぶりで日記文の一行くらゐは書けようと思はれたので、舎へこのノートを取りに出かけて行つた。

 この病室から一歩外部へ踏み出した刹那、自分はもう何もかも変つてしまつた風景に吃驚した。たつた十五日、外部と切断された病室にゐる間に、自然は素晴しい変化を遂げてゐるのだ。まだ青かつた木々の葉は、枯れ果てて危く細い枝に鎚りついて、すつとでも吹かうものなら散つてしまふだらう。舎の近くのプラタナスなどは、すべての葉を散らせてしまつて、あらはなる骨格と自分が呼んだ幹ですら、もはやさういふ形容では面恥しいだらう。それに狭い病室に居た故か、あたりは野放図もなく広く、なんだか真空の内部へ這入り込んだ思ひさへした。舎の中へ這入つても丸で以前とは異つたやうに思はれて、兎に角何もかも、一度も自分の眼に映じたことのない新しい世界のやうに思はれた。いや久しい間帰らぬ間に、色移り香失せた故里に帰つて、あああれは見覚えがある九号病室だ、ふうむこれもよく浸つた労働風呂だが、