Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/4

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ゐるかゐないかが心配だ。それでその点に就き先生に訊ねてみると、今更そんなことを言つてもしらぬと言はれ、困つたと言ふと、あなたの体質から推して結核性関節炎を起す十分の怖れがあるので、わたし心配してゐるのよ、あなたの病気は関節が弱いのだから、それにその疵が関節に近いし、――兎に角明日レントゲンをかけてあげるからおいでなさい、と言つてくれた。帰つて来てから昼寝する。

 夕方になつてもカルモを持つて来てくれないので、又今夜も自分の弱い神経はびんびんと響いて苦しい思ひをせねばならぬかと思ふと、約束を守つて呉れないので恨めしくさへ思ふ。自分のこの神経の弱さを誰が知つて呉れるのか。何時になつたらこの雑然とした天地から抜け出て、静寂な世界に孤独の楽しさを味はふことが出来るのだらうか? 最早生涯この騒々しい濁つた中に住まねばならぬのではあるまいか。もしさうだとするなら、ああ自分はどうしたらいいのか。どうしたらいいのか。

 この雰囲気の内部では文学など糞喰へだ。だからこそ、かうこの院内の文学が(き)(ぎ)れなんだらう。そして本気でやつてゐるものは詩か歌の世界に遁れて、創作 (小説の) の世界に戦はうとする熱意は消失してしまつてゐる。『山桜』の文芸特輯号にしたところで、花吟の作品は纏まりを見せてゐるけれども、其処にどれだけの深みと、世界観の高さがあるだらうか。

 そして僅かに小説らしいものとして我々が受け取れるその作品の作者である花吟さへも、最早文学への熱意を失つてしまつたといふではないか。


 八月二十八日。

 毎月二十八日は遥拝式で早起きをせねばならぬ。自分も今日は早く起きて式に参列しようと思つてゐたのだが、昨夜カルモを飲まなかつたので、遂に早く起きることが出来ず、起きた時は七時を過ぎてゐて、式に行つたものも帰つて来てゐた。

 空は曇つてゐる。が、自分が注射を済ませて帰つて来た頃から雲がだんだん消えて行つて、やがて晴れ渡つた秋らしい青空になつて来た。売店の連中と大工さんとの野球があるといふが、一時を過ぎた頃から又曇つて来た。野球などどうでもよい。雨が降るといいのだが。


「一週間」は三十五枚、第一日の分だけ書いたが、第二日になつて詰つてしまひ、一行も進まない。それといふのも腹工合が悪い上に、毎日野球に引き出され、ゆつくり考へてみる暇がないからだ。野球なんぞあつさり止めてしまつて、――と思はぬでもないけれど、やつぱり好きだし、それに今の間に遊んで置かねばと思ふ、はかない病者の気持もある。

 この頃になつて又亀戸時代に感じたやうな疲れを覚えるやうになつた。暗黒な前途の重さがひしひしと自分の心理を圧迫して、自分はどうにも耐へられず、早く気狂ひになつてしまふか、死んでしまふかしなければ――このやうな全身に抵抗力といふものが皆目なくなつてしま つたやうな日が何時まで続くのか。からりと晴れ渡つた空のやうな、澄明な心に何時なれるのか。何を見ても興味を覚えず、坐つてゐても、臥つてゐても、これが自分の最も適当な態度とは思へず、何かもつとこれ以外のことに自分の態度を決めて行かねばならぬやうな気がしてならぬ。坐れば坐つてならぬと思ひ、歩けばその目的が漠とし出すし、弱つた――弱つた。

 ここまで書くと十二時過ぎであつたので、グラウンドに野球を見に行く。どちらも余り下手糞なので、かつたるしく見てゐられない。それで帰りかけると、分室で手紙が来てゐるといふので貰ふ。

 久しぶりの老いた祖父からの便りである。古風に筆で書かれた文に、目前に祖父を見たやうな嬉しさを覚える。読んでゐるうちに、以前の妻であるY子が肺病で死んだといふ。思はず自分は立ち止つて考へ込んだ。あんなに得態の知れぬ、そして自分を裏切つた妻ではあつたが、 死と聞くと同時に言ひ知れぬ寂しさを覚えた。自分は彼女を愛してはゐなかつた。けれど死んだと思ふと急に不愍さが突き上げて来て、もう一度彼女の首を抱擁したい気持になる。出来るならばすぐにも彼女の墓前に何かを供へてやりたくも思ふ。死の刹那に彼女はどんなことを思つたらうか。それにしてもなんといふはかり識れぬ人生であらうか。死を希ひ願つて死に得なかつた自分。だのに彼女は二十のうら若さで死んでしまつた。

 ××のKも病気とのこと。老いた祖父が頼りとする自分を、この遠くの療養所に送つて、そして自分の周囲のものが次々に死んで行くさまはなんといふ悲しいことだらう。最早祖父母の上にも死の影は遠くあるまい。

 明日は松舎と野球の試合があるので、夕方になつて練習をする。練習中はY子のことも何も忘れ果ててゐたけれど、終つて風呂に入り机の前に坐ると、すぐ又彼女のことを思ひ出した。あんなに元気で、田舎娘らしい発育