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食はなかつた人間といふものは随分ばかげたものである。猫が気色悪いんなら牛だつて馬だつて気色が悪い。況や豚などは飼つてゐる所を見れば、猫の方が余程綺麗だと思ふばかりである。

 我々の生活にしても、絶望や不安や恐怖を通り越して初めて楽しみは得られるが、凡てを肯定した虚無といふものがあるとすれば、恐らくこのあたりにあるものであらう。凡てを否定するか、凡てを肯定するか、このどつちかでなければ虚無などあらうとは思はれない。解脱にしても右のやうな虚無以外に考へやうがない。さうなつて来ると、人間を、いや癩者を救ふ道は虚無に通ずる道ばかりであると思はざるを得ない。滑稽と私が言ふその滑稽とは、自分でも十分には解らぬながら、瞬間的に起るこの虚無に違ひない。ところが我々如きものでは日常生活までをこの虚無の中に置くことは、なかなか出来るものではない。どう考へてみても私には、虚無たり得ない宿命が人間の中に在るやうに思はれるのである。虚無に近づくためには、どうしても人間以上の強烈な「意志」が必要だと思はれる。凡てを肯定した虚無、これ以外には私は私を救ふ道がない。そして我々の生活に頼り得るものは唯一つ意志あるのみ、そして虚無たり得ないのが人間の宿命であるとすれば、私を救ふものはもう意志だけだ。

 話が妙な風になつてしまつた。理窟はもうやめにして兎に角猫料理は今後大いに社会人の間にも行はれて良いものだと思ふ。