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年も佐太郎に会はないし、別れた時彼はまだ十二になつたばかりだつたので、今はどんな子になつてゐるか見当がつかなかつた。それで彼女は佐太郎の姿を考へる度に逃げた男の姿をあれにあてはめて考へる習慣になつてゐた。その男は二十五であつたし、佐太郎は今年十八だつたが、彼女のイメーヂにはさういふ年齢の違ひなどあまり苦にならなかつた。

 佐吉のことを考へ出すと、彼女は腹立たしくなつた。自分や父がこれほど心配してゐるのに、なんといふ親不孝な兄だらう、まるでつてもつねつても唇を尖らしてゐるひねくれた子供のやうではないか、お父さんの気持だつて少しは察したらいいのに――。

 午後になると、彼女は佐吉の病室へ出かけた。どうしても佐太郎のことを今日のうちに教へて置かねばならぬと思ひ、彼女は父の舎へ寄つて手紙がママ受けとつた。兄がどんな顔をしようと、もうかうなつてしまへば仕方がないではないか、また考へて見ると、この手紙を兄に見せるのをどうしてかうも憚つてゐるのか、その理由が判らなかつた。父も年寄になつた今は、一番兄に見せるのが至当であるし、また佐太郎も兄へあててこの手紙を書くべき筈だと考へられるくらゐではないか――もつとも佐太郎と絶えず文通してゐるのは彼女で、なつかしきお姉様と、どの手紙にも冒頭されてあるのが彼女はばかにうれしかつたのであるが――。彼女には父の気持が半ば不可解であつた。が、不可解のまま彼女は何時のまにか父と同じやうな気持になり、知らず識らず兄を憚つてゐたのであつた。彼女は拳を握るやうな思ひで決心した。この上何か兄が腹の立つことを言つたら、その時は兄を思ふさまなじつてやらう、と彼女は胸のうちで力を入れた。が、昨夜佐七がつまづいたところまで来ると、なんとなく呼吸が弾んで来て、胸さわぎがするやうな気がした。するとまた男の姿が浮んで来て、彼女は足を速め、ちよつと曇つた空を仰いでから下を向いた。雨はまだやまなかつたが、霧のやうに細くなつてゐる。

 兄は相変らず顔をしかめて、眼が充血し、近くへ寄るのも重苦しくなるほどであつたが、しかし昨夜と較べるとずつと気持の柔いでゐることはすぐ判つた。彼は横になつてゐたが、彼女が来ると起き上つた。

「今日はいくらか調子が良いやうだよ。」

 昨夜と同じ兄の姿を考へてゐた彼女は、ちよつと面くらつたやうな気になつた。

「さう。」

 と彼女は強ひて不機嫌さうに言つて見たが、わけもなく気持はほぐれてしまつた。

「お父さん、今日来なかつた?」

「来ないよ。」

「さう……。」と彼女は瞬間ためらひ、「佐太さんからお手紙が来たのよ。」

 彼女は二三度いそがしげに瞬き、ちよつと眼を閉ぢてから手紙を出した。

「どれ、どんなこと書いてある。」

 彼女は急に胸が切迫して来るのを感じた。何か強いもので全身を押しつけられるやうな心持であつた。佐吉が吸ひ寄せられるやうに手紙を読み出すと、彼女は黙つてゐられなくなり、

「明日、来るのよ。」

 と言つたが、佐吉は黙つて読み続けた。

「事務所の方は昨日お父さんが手続きしたからよかつたけど、お母さんはいきなり来て相談するつもりらしいのね。」

 佐吉の返事のないのを見ると、彼女は不安になり、また続けて、

「それとも佐太さん独りで来るのかしら、でも早い方がいいわ、病気で社会にゐるのはつらいものね。」

 終りまで読むと、そこからまた初めに続いてゐるやうに、佐吉は二三度読み返した。そして一言も物を言はないで考へ込んだ。

「明日幾時頃来るのかしら――。」

 と言はうとすると、佐吉の顔が急に歪むやうに見えたが突然、

「うるさい!」

 とどなりつけるやうな声を出して、ふゆ子の顔を睨んだ。佐吉の頭の中には荒い風が吹き始めてゐた。

「なんだつて俺にもつと早く知らさなかつたのだ。」

 ふゆ子はむつと胸がつまり声が出なかつた。兄の我儘さに腹が立ち、しらない! と投げつけて帰りたくなつた。

昨夜ゆうべお父さんが何のためにここへ来たか、考へてちやうだい。我儘者!」

 と彼女は呼吸を弾ませながら言ふと、顔に血が上り、胸の中がひくひくと痙攣した。

「何のために来たか、俺が知るものか。さう言ひに来たのなら何故さう言はなかつたんだ。」

「自分の仕うちを考へたらいいわ。」