居ること五歳、南部の僧兵叡山を攻む。又爲義に命ず。爲義、十七騎と、栗子山に逆へ擊ちて、之を走らす。後十餘歲、累遷して檢非違使左衛門大尉と爲り、五位に叙せらる。
爲義、二十三子あり。長を義朝と曰ふ。尤、善く戰ふ。相模の鎌倉に居る。關東の家人盡く之に附く。下野守と爲る。第八子を爲朝と曰ふ。猿臂にして善く射る。幼にして諸兄を凌犯す。爲義之を患ひて、之を豐後に逐ふ。鎭西八郎と曰ふ自、九國總追捕使と稱し、妻の父阿曾忠國を以て鄕導と爲し、數菊池、原田の諸大姓と戰ふ。十五歲に比びて、遂に盡く九國を伏す。九國の守介交之を訴ふ。朝廷、太宰府に敕して之を討たしむれども、克つこと能はず。爲義坐して官を免ぜらる。爲朝聞きて之を病ひ、須藤家季等二十八人と倶に京師に至りて、罪を待つ。
是歲、近衛帝崩ず。帝は鳥羽法皇の寵姫得子の生む所たり。夙く禪を崇德上皇に受く。帝崩ずるに及びて、上皇、位に復せんことを願はる。法皇、得子と議して、帝の兄を立てゝ位に卽かしむ。是を後白河帝とす。帝の保元元年、法皇疾あり。得子を召して之に一筐を授け、戒めて曰く、「緩急之を啓け」と。七月、法皇崩ず。