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兵器へいきを献ぜしめて、之を鎭む。義家一の玄弓げんきうを献じて御枕おんまくらほとりに建つ。卽、患無し。法皇問ひて曰く、「乃、東征にる所なるからんや」と。對へて曰く「臣記せざるなり」と。法皇これを嗟賞さしやうす。然して義家の官位甚だひくし。正四位下右衛門尉うゑもんのじやうを以て天仁元年にしゆつす。年六十八。

六子あり。義宗よしむね義親よしちか義國よしくに義忠よしたゞ義時よしとき義隆よしたか。義忠、最、名あり。官、檢非違使けびゐしに至る。季父きふ義光之をねたみ、義忠の臣鹿島かしま某をいざなひて、ひそかに之を殺さしむ。初め義忠の叔父義綱よしつな、義家と相にくみて、兵をかまふ。詔して兩家の兵、京師に入るをきんぜられて、事むを得たり。後義綱陸奥守を以て、擊ちて亂人平師妙もろたへを出羽にたひらぐ。功を以て從四位上に拜す。其黨、頗廣し。此に至りて、朝議、義忠の死を以て、義綱の子義明よしあきに出づとし、兵を遣して之を殺さしむ。義綱、甲賀山かうがやまる。源爲義ためよしに詔して、之を討たしむ。義綱、自、こんして降る。佐渡さどに流ず。義光の子孫、よゝ甲斐に居る。因りて甲斐源氏と稱す。

爲義ためよしは、義親の子なり。義親、對馬守と爲り、罪を以てちうせらる。爲義幼にして孤なり。義家之をとし、以て義忠のと爲さんと欲す。甲賀の捷に、左兵衛尉さひやうゑのじやうはいす。時に年十四なり。其明年、義家しゆつす。爲義、遂に直に義家の後承ぐ。