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寵をほしいまゝにし、進みて止るを知らざるも、なんとがむるにらんや

假設たとへば、重盛、父に後れて死し、盡く其爲す所をはんして、子弟を戒飭し、王室を輔翼ほよくせば、則藤原氏にあとぎ、隆を比すと雖も可ならん。而れば源氏、何にりて以て起らんや。源平二氏の評論源氏名は暴亂を治むと爲して其實は王權を攘竊せしなり源平の罪未だ輕重し易からざるなり。且夫れ源氏の猜忍にして、骨肉相む、平氏の闔門かふもん、死に至るまで、懿親を失はざりしに比して、孰與いづれぞや。

世、平語を傳へ、琵琶に倚せて之を演ず。其音悲壯感憤にして、聽く者悽愴せざるは莫し。余甞て西、長門に遊びて、壇浦を過ぎ、平氏覆滅の所を觀き。又肥後にいたりて、其州に五家山あり。山谷深阻、平氏或は竄匿し、子孫今に至りて猶存する者あり。外人と交通せずと聞きぬ。夫れ平氏の王家に於る功罪相償へり。天必しも其後を剿絕せざれば、則是れ其れ或ひは然らん。

外史氏曰く。王權の武門に移りしは、平氏より始まり、源氏に成れり。而して之を基しゝものは藤原氏なり。故にほゞ王室、相家の系統を叙でゝ以て參觀に備へん。

盖し神祖【神祖】神武帝より後三十九世を、天智と曰ふ。是を中宗とす。天智の子大友【大友】弘文位に即