に易へしむ。宜なるかな、其重盛に若かずして、以て此に至る」と。宗盛旣に死し、時忠等、皆流に處す。
義經
兵士殘黨時に義經、賴朝と𨻶あり。逃れて西海に奔る。賴朝其平氏の遺黨と相依託して、亂を作さんことを恐るゝや、北條時政を京師に遺し、平氏の胤子の所在に伏匿する者を購ひ索めしめ、幼孩は之を生ながら埋め、稍長ずる者は之を刄す。其母若くは保、往々隨ひて死す。啼哭四に聞ゆ。六代維盛の子を六代と曰ふ。其母に依りて大覺寺の側に匿れ、人に吿げられて斬に當る。其乳母、僧文覺に因りて宥を請ふ。賴朝、素より文覺を重んず。且重盛の己れに德するを思ふや、特に之を宥す。髮を削りて文覺の弟子と爲る。文覺不軌を圖るに及びて六代も坐せられて死す。
忠房初め維盛の弟忠房、壇浦を遁れて紀伊に匿る。知盛の次子知忠、族人の西奔する時に當りて、甫めて三歲なり。乳母の子
紀友方携へて備後に
匿れ、後伊賀に徙る。平氏の舊臣藤原
忠淸、宗盛に先だつこと一年にして捕斬せらる。平貞能、髮を削り、重盛の骨を奉じて、常陸に隱る。忠淸の二子忠光、景淸は、平盛嗣等と各所に潜匿す。後八年、鎌倉土木の事あり。賴朝臨む。
忠光忠光役徒に
雜はり、賴朝