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盛、時に京師にあり。是歲五月、賴朝、書を以て之を召す。且曰く、必宗淸を携へよと。賴盛即東に行く。宗淸從ふを肯ぜず。曰く、「臣禍福を辨ぜざるに非ず。獨、西海の諸公舊僚にはぢざらんや」と。乃賴盛を送りて、近江に至り、辭して西し、來りて屋島に至る。是月、貞能の弟貞繼、兵を伊賀に起し、平氏に應じ、二百人を集め、襲ひて州の守護しゆご大内惟能おほうちこれよしを破り、遂に近江に入り、源秀義ひでよしと戰ひて之を斬る。已にしてこれ能に敗られ、之に死す。三日平氏世呼びて三日平氏と曰ふ。

兒島戰平氏、山陽道を復せんと欲し、九日、行盛、兵二千を以て兒島に屯す。範賴十萬騎を以て來り攻む。我が軍敗れ還る。宗盛以下、日々悒々として樂まず。知盛曰く、「吾れさきに京師を守らんと欲すれども、公等從はず。今終に如何」と。宗盛、以て應ふることなし。

明年春、知盛、長門の引島にきづきて、門司關もじのせきを扼す。又兵を遣し、擊ちて土肥實平を備前に破り、兒島を復す。又擊ちて河野通信を破り、其族黨百六十人を斬り、首を屋島にいたす。宗盛之を撿す。

屋島戰時に源義經、阿波より來り攻むと聞く。而れども未だ確報を得ず。明日、高松里