Page:FumotoKarei-Saturday-Kōsei-sha-2002.djvu/5

提供:Wikisource
このページは検証済みです

 とそこまで云いかけておいて彼はまたしてもつと窓の側へ行ったが、今度はそこにもいたたまらママないという風に次の窓へ行き尚も壁伝いに部屋の中を二三度行ったり来たりしていたが漸く少し感情が静まったらしく、やや平静をとりもどした口調で後を続けた。

「悪因縁とでも云うか、宿命とでも云うか、兎に角、まったく予期しなかった問題が起って死ねなくなった、というよりも実は僕自身の中に死を恐れる心があって、その心がこうなることを悪いと知りつつ、求めていたのかも知れないんだが……」

 と云って尚も彼の語り続けるところに依ると、彼がこの眼疾に罹る兆候を最初に意識したのはこの春も始めの頃のことで、その時彼は、軈て猛烈な充血がやって来るに違いない。その時こそ、どんなことをしてでもやってしまわなければ、と強く自殺の決意をしたのである。彼も例に洩れず自殺失敗者の一人であり、発病当時はそのためにどんなに苦悶したか知れない。けれ共、失明に迫られた時こそやれる、と彼は信じていた。そして遺書を書き、秘かに身の廻りを整理して、自ら運命を決するその時へ備えたのである。そして、炎暑が漸く衰えを見せた八月の末になって神経痛を伴ってその烈しい充血がやって来たのであるが、それと殆ど同時に、全然予期しなかったもう一つの運命が彼を訪れた。それは以前から音楽の同好で知り合っていた小田桐信子が突然求婚して来たのだというのである。

「意志が強かったらそんなことなんか問題にしないでやってのけられるんだろうが……」

 と云って彼は唇を嚙んだ。

「求婚された?……」

 と渥美は、こんなに重症になり、失明しかけている奥田に対して、あまりにも突飛なその問題に驚かされて思わずそう云った。

「そうです、驚いたでしょう。癩者同志が結婚すると云っただけでも健康社会の人々は喫驚するでしょう。ましてこんなに重症になった僕が求婚されたなんて云ったら、誰だって驚くどころか莫迦しいと言って信じないでしょう。全く莫迦しいくらいのものです。けれ共僕は死を恐れてその莫迦しさの中へ逃げ込もうとしているのです。」

 と奥田はたたみかけるように云った。渥美は確かに驚いた。もっとも一時奥田と信子との関係が何か事ありげに噂されたのは去年のことで、渥美もその噂は耳にしていた。けれ共奥田は兎に角としても、信子は最軽症者で退院候補に挙げられて居り、自分でも健康証明の下される日を総ての希望として熱心に治療していることを知っていた渥美は、そんな噂は狭い天地に限られた生活をしているために取り立てて話すような話題も乏しいこの生活では善悪ない連中によって往々虚構された噂が真実らしく伝えられるので、この場合もそれに類するものとして一笑に附しておいたのだった。しかるにそんな状態にあった信子がどうして突然求婚などする気になったのかといえば、実はつい最近まで彼女は矢張り退院することを唯一の希みとして一心に治療していたのだったが、親しい友人の奥田が此の頃になって急に病状が進み、その上眼も悪くなったという事実を知ってそれで急に心が変り、退院の希望を捨てたのだ。

「だからこれは女の気の弱さから、ここで退院したら口の悪い連中に、病気が重り盲目になりかけた男を捨てて退院したと云われるので、それを恐れてのことであって、純粋なものではないのです。」

 と奥田は云うのである。しかし渥美はそんな理屈はどうでも、それによって奥田が死の誘惑から後退りしているのが感じられて重荷を下ろした気持だった。実際彼の死に対する未練がましい泪も言葉もいまはもう死の誘惑に対する哀別の泪と挽歌とに変っているのだ。渥美は彼のためには、その挽歌を聞きながら静かに伴奏してやればよいのだった。