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にもなろうとする長い年月の間に、自分の受持病室で脈をとってやりながら死なしてしまった患者達の顔だった。そしてそれはどれもこれもむごたらしい惨めな相貌だった。だが不思議にもそれ等の中で一つも怨嗟や呪咀の声を発したものはなかった。どの顔も苦痛に凝乎と堪えている人間としての誇りを秘めていた。そして通り過ぎてゆくそれ等の顔の一つ一つを静かに見送っていると、いのちを預けて彼女を信頼しきっていて死んでいったそれ等の人々に対して渥美は自分の人間としての小ささと、医者としての無力さとにひしと自らが責められ、あの人達のためにもう少しどうにかしてやれなかったものだろうか。ママという悔恨の情に襲われるのだった。それから尚続いて来る行列の顔はまだ生きている重軽症とりの患者達の顔だった。それ等の顔もみんな小さな彼女の力に鎚りつき、医者としての彼女の技術を信じ切っている顔だった。それ等の顔の中へ交って、行き惑ったように、既に死んだ人の数に入っている一つの顔がくっきりと近づいて来た。ロだけを出して頭全体を繃帯でぐる巻にし、咽喉にはカニューレーを挿し込んでそこから呼吸をしている男の顔である。彼はカニューレーの口を繃带の手で押えてヒーヒママと凩のようにかすれた声でものを云うのである。

「隆吉は意地ばかり強くて気の弱い奴ですから、先生あれが弱くなったらどうかお願いします。」と彼は隆吉の兄の清太郎で死ぬまでそのことばかりを気にかけていて、渥美が行く度にそういっていたのだった。

 奥田だけはどうにかしてやらなければ――と渥美は他の患者達に対して尽しきれなかったものを、せめて彼一人にでも傾け尽さなければ済まない気がして、そう思いながらもう一度清太郎の顔を見直すと、それは多過ぎる程濃い長髪をボサさせて病的に白い顔へ浅黒い結節の痕が残っていて、意慾的な目鼻立をした奥田の三四ヶ月前までの元気な相貌に変っていた。その元気だった奥田がこの僅かの間に眼は兎のように赤く、顔は結節性紅斑で腫れ上がってしまったのだと思うと、渥美は、その元気だった時の奥田の顔はもう永久に見られなくなるのだと思い、瞼に浮んでいるその幻を凝乎と凝視めていると、こんどはその顔へ太く濃い眉毛が出来、髭が生え、長い睫毛の一本一本までもがくっきりと生えて突然その顔は表情豊かな健康者の顔に変った、と同時に渥美はこの十年間を自分の身うちのどこかに抑えに抑えられて欝屈していた血が俄然彼女の理念の殿堂を覆して奔騰し、全身を熱くするのを感じた。その顔は渥美が初恋の人の顔であり、彼女が愛児玲子を抱いて別居したままになってしまった生涯に唯一人夫と呼んだその人の顔だったのである。渥美は身ぬちを馳けめぐる血の奔流に押し流されようとする自己を溺れさすまいと藻搔きながらその幻を払い除けるために強く首を振った時、傍の奥田に声をかけられた。

「済みません。先生御心配をかけて済みません。」

 と奥田は腰かけている渥美の前へ跼み込んで頭を下げた。その眼にはもう涙は乾いていた。渥美は全身を熱していた血が静かに引いてゆくのを感じ吻ッとして跼んだ奥田の肩に手をかけて、出来るだけ労わるように柔かい調子で云った。

「何さ、そんなに改まって礼なんか云ったりして…それで何処かへ行くんでしょう。いいですよ、変ったところへ行ったらきっと気持ママが落着きますよ、行きたいと思う所ありますか?」

 と云って渥美は私立の癩院のあれやこれやを忙しく思い廻しながら、覗き込むようにして奥田の顔色を窺った。奥田は一寸の間下唇を嚙んで凝乎と眼をつむっていたが、肩に置かれた渥美の手からすり抜けるようにして立ち上ったかと思うと、彼女の頭の上から吐き出すように激しい調子で云った。

「違うんだ、そうじゃない、眼が悪くなるなんか半年も前から覚悟していたんだ、だからそれだけならこんなに女々しい狼狽てかたなんかしやしないんだ。この一つきりの眼が悪くなったら、その時こそ死ぬつもりだったんだ。けれども……」