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 柚崎は部屋に入ると小森が敷いてくれてあった寝床へ入って今買って来た本の一冊を取って初めの方から読み初ママめた。傍の小森は、軽い寝息をたてて眠っていた。小森は三ヶ月程前に、失業した肺病の不幸な青年だと云うので偶然知り合った柚崎が同情して寄寓させて居るのだった。小森は病気の為でもあろうが細心で女のようにやさしく内気ではあるが人好きのする男だった。柚崎は三ツばかり年下の小森を弟のように労っていた。小森は色の悪い頰骨の突き出た顔へ長く伸した髪の毛を乱しかけて横向きにいじけた恰好で眠っていた。

 柚崎は寝床の上に腹這って新しい本を読みふけった。彼は何にする目的で本を読むのでもなかった。何も希望のない彼の魂が堪らなく病的にあらゆる刺戟とアジテイションを求めるのだ。そして、彼は眠りつく迄の数分間でも自分について考える余裕を恐れるのだ。それを避けるために好きな心を打ち込める本に読みふけるのだ。柚崎を斯うした彼にしたのは、その忘れんとして忘れられない過去の暗影だった。彼は昼間は大きくはないがかなり有名な出版社の事務に勤めて居た。彼がこんな勤めをするのも自分の過去を忘れようとする気持からだった。その為めに彼は毎日の仕事に心を打ち込んで働いた。その働きがいつか社でも重要な人間となっていた。併し、そうした勤務も慣れると過去の暗影が容赦なく彼の心をさいなんだ。その悩みをまぎらすためと、彼が持っている女に対する呪いとで彼は次ぎと若い女社員を誘惑した。その為に発狂した娘もあった。それが原因で自殺した女もあった。そんなことが彼の社に於ける信任を失墜させるであろうと思われたが、却って反対に彼が自分に一寸の余裕も与えまいとする自棄的努力が仕事の能率を十二分に揚げさせて、その上に才能のある彼は不思議な程社の方で珍重されていた。併し、同僚の中には彼を全くの悪魔だと云うものもあった。又、彼の過去を莫然と推察して善導しようとする者もあった。けれども彼はそんなことには意をとめなかった。善く云われようと悪く云われようと少しもかまわなかった。彼は他人にかれこれ云われて意志を曲げるようなことは生れママて一度だってしなかった。そして彼の行動は依然悪化して行くばかりだった。

 腹這いになっていることに疲れて柚崎は仰向きに寝直って一寸眼を閉じてみたが、まだ眠れそうもなかった。一時閉じた本を又取り上げて読んだ。斯うして、読み疲れて何時ともなく眠って、朝日の高くなる頃眼を醒し、早起きの小森が用意した朝餉を一緒に食って社に出かけるのだ。時にはひどく朝寝をして正午近くなって社へ出かけることもあった。そんな時でも遅れた分の仕事をとり返すこと位は彼には何でもなかった。小森は初めの内こそそんな時には心配して揺り起したが、今では柚崎の性質を知ってかまうことはしなかった。


3


 媚びと擾乱との雑然たる中に力フェーの夜は更けて行った。千耶子はあらゆる悲しい淋しい感情を胸に秘めて、出入の客に朗かな微笑を振りまいて居た。

 軈て、出入の客も疎らになった頃には彼女等の微笑にも、無心な電燈の光りにさえ疲れの色が見え、その中でレコードだけが活々と唄っていた。

 千耶子は今迄じっと堪えていた太息をホッと吐き出すと、急に眼がしらが熱くなって涙が出そうになった。それをやっと嚙みしめて、今日、兄から来た手紙を挟んである帯の上を押えてみながら正面の大時計を仰いだ。今夜柚崎の顔が見えないことも彼女を憂鬱にする一つの原因だった。時計は十一時を過ぎていた。客は四五人の酔いつぶれた常連が二ヶ所へかたまっていぎたない恰好でグド喋っていた。年増の女給と、年若いのとが蓄音機を中にして一枚ずつレコードをいじっていた。千耶子は兄の手紙をも一度読み返えママそうと