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威筋である科捜研の鑑定後に偽造が行われたと想定すること自体相当無理な設定であることを付言しておく。)に想定するも、右指摘と同様の結果をみるに至ることはあえて述べるまでもないであろう。)。

二 原告那須隆を除くその余の原告らの請求について

 原告らのうち原告那須隆以外の原告らは、原告那須隆が不法に起訴され有罪の判決を受けたことによって損害を蒙ったとして本件訴を提起し追行しているが、その請求の法律的構成は必ずしも明確ではない。しかし、被告は本件刑事事件の捜査、公訴の提起、追行、裁判になんら違法はないと確信するので、あえてこの点につき論ずる必要はないのであるが、念のためにこれに関し一言触れておく。
 1 本件刑事事件の捜査、公訴の提起・追行、有罪判決等一連の手続乃至行為により、亡〔丁2〕が原告那須隆の訴訟費用、弁護士費用等の支出を余儀なくされたこと、亡 〔丁2〕及び原告隆を除くその余の原告らが社会から白眼視され、種々の不利益を蒙ったことをそれぞれ損害として捉え、同原告ら自身に対する不法行為を主張するのであれば、同原告らのいう損害は、右一連の刑事事件の手続乃至行為と相当因果関係を欠く単なる事実上の不利益であって民法七〇九条の損害とはいえないから、不法行為の主張としては主張自体失当である。けだし、刑事事件の被疑者被告人の近親者がこれらの者に対し当然にその費用を負担すべき義務はないし、また検挙、訴追され有罪判決を受けた者の近親者が社会から蒙る事実上の不利益については、むしろそのような不利益な結果をもたらす社会乃至は個々の社会人の側にのみ問題があるからである。
 2 つぎに同原告らが、原告那須隆の受けた苦痛に関し民法七一一条に基づき慰藉料を請求するというのであれば、同原告らのうち原告那須とみを除く原告らは同条所定の近親者ではなく、同条は兄弟姉妹にまで類推適用できないから主張自体失当となる。また判例は、民法七一一条に基ずく慰藉料請求権は、生命侵害のときだけでなく身体傷害のときにも発生するが、そのためには、被害者の近親者において、被害者が生命を害されたときにも比肩すべき精神上の苦痛を受けた場合、又は右場合に比して、著るしく劣らない程度の精神上の苦痛を受けた場合にかぎり、自己の固有の権利として慰籍料を請求しうる(最高裁昭和三三年八月五日第三小法廷判決民集一二巻一二号一九〇一頁、同四二年一月三一日第三小法廷判決民集二一巻一号六一頁)とする。この立場に立っても同条を無限定に拡張解釈できるというわけではなく、同条の文言からの違法行為と損害の態様を生命侵害に限っている点を考慮すれば、同条の拡張解釈として許容される限度は、生命侵害に準ずべき身体傷害にのみ限られるというべきである。そうすると、亡〔丁2〕及び原告那須とみの場合、その子たる原告那須隆において本件一連の刑事手続により身体傷害を受けた事実はなく、かつまた同原告が刑事手続の客体とされたことを理由とする精神的苦痛は右判決のいう苦痛とは異るものであって、同条による慰藉料請求権は発生することはないのである。

別紙 準備書面㈣

一 捜査官による原告らに対する取調について

 原告らはこれまでの口頭弁論期日において、捜査段階で各自が受けた取調の状況について種々述べているが、結局のところ、いずれからも違法不当な取調を窺わせるに足る具体的な事実が指摘されることはなかったものと理解され、被告としてはあえて反論の必要をみないが、なお念のためこれを刑事記録に基づいて若干の検討を加えておく。
 原告那須隆は、逮捕された昭和二四年八月二二日の司法警察員に対する供述以来、一貫して犯行を否認していたものの、八月六日夜の行動(アリバイ)について十数回行先を変えたが、同年九月一〇日検察官の取調に対しては「今ではどう考えて見ても家におったと思う」と供述するに至り、更に同月二九日検察官に対して「私はその晩家におりました」「家におった事は絶対に間違ありません」と供述し、その後公判廷においてもこれを維持した。
 右のとおり、原告那須隆のアリバイに関する供述は変転を極めたため、捜査当局はその真偽の裏付けに過半を費やしたのであり、まさに本件捜査は同人の供述に振りまわされ続けたといって過言ではなかった。
 一方捜査当局は、原告那須隆を逮捕するや、直ちに同人の実母原告那須とみ、実妹〔丁4〕、〔丁〕、〔丁5〕、〔丁3〕らの取調を実施したところ、同女らの司法警察員に対する原告那須隆のアリバイに関する供述は区々で明瞭といい難かったものの、そのなかで捜査当局の注目を引いたのは、右〔丁〕が原告那須隆は当夜(八月六日)外出し夜おそく帰った旨供述した点であった。その後同女は昭和二四年九月一一日検察官に対し前記供述を概ね維持しながらも、

「本年旧七月十二日すなわち新の八月六日の晩は私は九時一寸前頃自宅の十畳間に一番先に寝……兄隆は私が寝る時はおりません、隆は七時半頃シャツとズボンを着て何処かへ出て行き私が寝る迄は帰りません。
 何処に行ったのか行先をいわないから知りません。
 私は一度眠ってから夜中に目が覚めましたところ、兄隆は十畳間に寝ておった隣の母親と話をしておりました。
 その時何処かで氷を削るような音がしておりました。
 昨日警察で取調を受けた時、私は大抵午前三時頃に目が覚めて小便をしに行っているが、八月六日の晩にもそれと同じように午前三時頃に目が覚めたものと思うように申しましたが、帰ってから母に相談をしたところ、その時間は午前三時頃ではなくてそれよりも四時間も前である、即ち六日晚十一時過ぎであるといわれましたから、左様だろうと思います。」

旨供述を後退させている。
 ところで原告那須とみら家族の者は第一