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隆を観察したに過ぎないものと認められるうえ、同女の検察官に対する前記供述がなされた時期も原告隆が被疑者として選捕された後であることをも考え合わせれば、同女の前記供述をたやすく措信することはできず、したがって、それだけで原告隆が犯人であると認定するには極めて不十分であるというべきである。

5 犯行の動機等に関する捜査について

 ㈠ 検察官は、変態性欲者である原告隆がその満足を得る目的で本件を犯したことを根拠に公訴を提起したことは起訴状の記載自体から明らかであり、そして、《証拠略》によれば、原告隆は、以前〔乙4〕の義姉〔乙6〕から離婚話の相談を受けたことがあったので、昭和二四年八月一六日ころ、夫の不在中に同女方を訪れ、所用をすませた後、夕飯をご馳走になって同女方に泊ったことがあるが、その際同女と同じ部屋で就寝したことがあり、そして、雑談中、同女に対し、お前の妹である〔乙4〕の妻が殺されるかも知れないといったり、〔乙4〕方に遊びに行って泊る際には必ず若い〔乙4〕夫婦の傍に寝ていたことがあるばかりでなく、本件後〔乙4〕に対し、実際にはその事実がないのに松永夫人を二、三回見たことがあると話したことや、通信警察を退職後、以前同じ職場にいた女性に対し、全く知らない若い女の写真を見せて、この人を妻にもらうのだと話すなど、見栄を張ったり、誇張する一面がある一方、自説をまげない強情な面もあることが認められる。しかしながら、これらの事実だけでは、原告隆が変態性欲者であるとは断定しえず、したがって、検察官が本件犯行の動機につき変態性欲者がその満足を得る目的としたことはいささか早計であって、事の真相を見誤ったものというべく、他に本件公訴提起当時、検察官において本件犯行の動機を立証しうる証拠を入手していたと認めるに足りる証拠はない。
 もっとも、《証拠略》によれば、鑑定人丸井清泰は、原告隆の性格に関し、多数の参考人の捜査官に対する供述調書を参酌し、「表面柔和に見えながら、内心即ち無意識界には残忍性、サディスムス的傾向を包蔵しており、相反性の性格的特徴を顕著に示す。精神の深層即ち無意識界には婦人に対する強い興味がうっ積していたものとみることができる。」と鑑定しているけれども、鑑定書に引用されている参考人らの供述内容を子細に検討しても、原告隆が変態性欲者であると認めるに足る科学的ないし合理的根拠は見い出すことができないので、右鑑定書はその前提を欠くものであって、到底採用の限りではない。
 ㈡ また、《証拠略》によれば、原告隆は、昭和二四年八月一〇日ころの晩、〔乙20〕方前で、〔乙18〕らと松永事件(本件)の話をしたとき、被害者はメスのようなもので殺されたのではないかと話したことがあり、また、同月一六日ころには、〔乙6〕に対し、松永夫人が殺された状況や殺害現場の様子を具体的に話したうえ犯人は容易に判らないといったり、紙一枚でも人を殺せるとか、人に気付かれないで部屋に侵入する方法や音をたてないで歩く方法についての話をし、さらに泥棒はタンスを下の方から開けるが、普通の人は上の方から開けるなどと話しており、また、〔乙4〕に対しても、人が寝ている部屋に相手に気付かれないように入るには寝ている人と呼吸を合わせて入ればよいとか、人の眠っている顔に半紙をぬらして張れば死ぬ と話すなど、松永事件に非常に関心を持っていたことが認められるが、本件のような地方における衝撃的な大事件については原告隆ならずとも少なからぬ関心をいだいたであろうことは容易に推測されるうえ、《証拠略》によれば、原告隆は、青森県通信警察官を依願退職したのち、昭和二三年夏ころから定職に就かず、自宅において家事手伝いなどをしながら職を探していたのであり、特に警察官を強く志願していた関係もあって、これまでにも警察の捜査に協力していたばかりでなく、本件の捜査にも協力するなど犯罪の捜査に少なからぬ関心を有していたことが認められるのであるから、前示の如き原告隆の言動は必ずしも特異なものとはいえず、ましてや原告隆が犯人であることの状況証拠としてはあまりに根拠薄弱なものというほかはない。
 ㈢ 以上によれば、原告隆には本件犯行の動機がなく、また、本件発生前後の原告隆の言動も、右口で説示した事情を考慮すれば、格別異とするに足りないものであることが明らかである。

6 アリバイに関する捜査について

 《証拠略》によれば、原告隆は、警察及び検察庁における取講べにおいて、当初、本件が発生した昭和二四年八月六日の晩は向いの〔乙20〕方に将棋をさしに行き、午 後一〇時ころに帰って寝たはずだと述べ、次いで、〔乙20〕さんの所に将棋をさしに行っていないとすれば、その晩は家にいたと思いますと述べ、その後、八月六日のことはいくら考えても記憶に浮んできませんと述べ、さらに、八月六日の晩は公園に行き、午後一〇時過ぎに帰ったと思うとか、映画館へ「四ッ谷怪談」を見に行き、午後一〇時半ころ帰宅したと述べるなど、捜査官に対する供述が目まぐるしく変転した後、再び、八月六日の晩は家にいて外出していないと供述するに至ったことが認められる。また、《証拠略》によれば、八月六日の晩の原告隆の行動について、家族らの供述もまちまちであることが認められる。以上のように、本件発生当夜の原告隆の行動について明確なアリバイは存在しない。しかしながら、そのことのみをもって直ちに犯人と断定することはできず、この点も原告隆を犯人とする証拠たりえないというべきである。
 のみならず、《証拠略》によれば、亡〔丁2〕は、昭和二四年九月一二日、警察官の取り調べに対し、「尚六日の晩〔丁8〕の造花を〔丁4〕が買いに出て帰ったのは午後一〇時ころで、その時は隆が家に居ったということも聞きました。私は妻から八月六日の晩、隆は午後一〇時ころ外から帰って来たということを聞きました。」と述べていること、原告〔丁4〕は、原一審において、同年八月六