Page:EkiToJinsei.djvu/18

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いふ書物が唯卜筮といふ方面から効力があるのではなくして人々の實際生活の伴侶となるものである、所で是等の周易などアテにするは今日の人から見て羞かしくないかどうか、他の言葉でいふと周易に夫れだけの價値があるかといふ一段になる。夫は人々の見解で斯んな者はアテにならぬといつて終へば夫迄であるが自分の考へでは大變アテになると思ふのである。昔し周易の言葉を作つた人々は孰れも海に千年山に千年餘程毛の生へた人間で處世に就ては隨分精神を練つた人であると思ふ、文王とか周公とかが作つたか否やは別として社會に經驗のある人の作つたものに違ひない。社會に經驗のある人の言ふた事は極平々凡々の中に意味ある。さういう所から考へると確かに周易を伴侶として相談相手として宜いと思ふのである。之は周易を贔負目に見た樣な解釋であるが贔負目ではない。福澤先生が獨立自尊といふことを言はれた、そんなことは雜作なく言はれるやうに