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曰く高說關係する所甚だ大なり。聞きたる所に依りて記錄せしむべしと。魯國式部官ユセフオヰツチユ von Jusevovitsch, Wirklicher Staatsrath 我說を稱贊す。此人は聖彼得堡の貴人は斯〻るものにやと思ふ程優美なる骨相あり。獨逸人ヱエベル Weber 曰く。本題は未熟なり。宜く次會に廻すべし。又余が說を補足して曰く。某大洲と區分するは現今單に地學上の餘習に止まり、民學上の意味なし。且歐洲外と云ふ中には米國の大なるもあるに非ずや。又歐洲諸會の歐洲外の戰に對する擧動は是れ一の塲合に過ぎず。本會に出すまでもなし云々。遂に本題は次廻に巡すことに決す。ジユネフ盟約を軍隊に知らしむる策を議す。余石君に吿げて日本にてジユネフ盟約に注釋を加へ士卒に頒ちたる報吿をなし、其印本數部を會に示す。全會傾聽す。ユセフオヰツチユ後より指にて余が背に觸て曰く。驚歎々々と。是より會員の日本委員を見ること前日と其趣を殊にせり。此日の議中ジユネフに記念碑を建つることの可否に至り、クネゼベツク von dem Knesebeck, Cabinetsrath の演說喝采を博せり。曰く建碑の議往日一時の熱中に出づ。且ジユネフ諸君の意を推測するに、人心中の記念碑 (ein Monument im Herzen) を重んじ、金石の記念碑をば輕んぜらるゝならんと。遂に否決す。尋いで閉會式あり。此日塲を出でゝ馬車に上る時、石君雙手もて我手を摻りて曰く。感謝々々と。以上記する所の他、石君の起草、余の飜譯にて印刷し、會員に頒ちたる書あり。日本赤十字前紀 (Vorgeschichte des Rothen Kreuzes in Japan) 是なり。石君公報の尾に曰く。忠悳獨逸語に熟せず。佛蘭語の若きは其未だ曾て學ばざる所なり。故に今囘の會谷口謙、森林太郞の補助を得ること多し。會塲にての應答は森林太郞をして負擔せしめたり云々。谷口醉中余に謂て曰く。今囘の會君の盡力多きに居る。僕力の君に及ばざるを知る。然れども僕微りせば誰か能く石黑の爲めに袵席の周旋を爲さんと。午後吿別の訪問を爲す。宮中の夜會に列す。大侯夫人余に向ひて賞詞あり。

二十八日。爽且東洋急行列車 Orient-Express-Zug に乘り、カルヽスルウエを發す。夕に維納府に着し、寵人街 Favoriten-Strasse なる勝利神客舘 Hôtel Victoria に投ず。維納行は石君の日本政府を代表して萬國衞生會に臨まるゝに隨ふなり。同君已に內務省の官僚北里柴三郞、中濱東一郞を派して此府に在り。余と谷口とは私人の格を以て會に臨む。故に維納に滯する間は公務なし。