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十八日。村井純之助來る。內務省試驗塲の吏なり。博物學に精し。余の東亞學校敎員たりしとき、此人植物學の敎員たりき。頃ろ龍動博覽會の役員となりて渡海し、伯林より此に來ぬとなり。

二十一日。村井を送りて德停停車塲に至る。歸途飛雪面を撲ち、冷氣骨に徹す。

二十八日。菊池大麓來る。始めて「パノラマ」Panorama 館に相見る。此夕家書又た到る。

三十日。佐方潛造ウユルツブルク Wuerzburg より至る。佐方は駐英公使の族人なり。舊と大學の一等本科生たり。公使の任に赴くに當りて。其課業を止めて獨逸國に來ぬ。衞生學を修めんとすといふ。今より後は余と同じく ホフマン師の門下たるべし。性篤實にして憑もし氣なり。

三十一日。菊池を送りて停車塲に至る。此人は澳國維納府を經て鄕に歸ると云ふ。

四月一日。 ビスマルク候の生誕なり。家々宴を張りて相祝す。

十二日。古莊韜と加藤照麿と來責府に來ぬ。韜は嘉門の子、照麿は弘之の子なり。彼はエナ Jena 私學校の生徒たり。此は伯林の大學生たり。加藤の曰く。伯林より此に至る途中、ウユルツブルク Wuerzburg を經て、伊東氏を見き。此人「クロラアルヒユドラアト」Chloralhydrat を嗜む癖あり。今身體瘦削し、精神昏矒すといふ。

十五日。家書到る。石黑緖方兩軍醫監の書も亦至る。小山內建、淸水郁太郞の病沒、緖方收二郞の結婚を知る。

十八日。飯島魁發軔す。送りて停車塲に至る。夜ニイデルミルレル Niedermueller 氏に誘はれて、トツトマン Albert Tottmann を訪ふ。此人は音樂の師なり。

二十三日。國王の生誕なれば戶ごとに旗を建つ。