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chiv fuer Hygiene Bd. V) の事を言ふ。三宅訪はる。所謂夜電エデン戲園 Edentheater を觀る。亦歸天齋正一の類のみ。

二十六日。三宅去る。

二十八日。家書至る。

二十九日。駁拏烏蔄の文新聞 (№ 360) に出づ。惜む可し冒頭に校合の行き屆かぬ所あり。されど議論の主とする所にあらねば、只ゞ書狀もて編輯局まで言ひやりしのみ。是は他日ナウマンの辨駁を受くべきを慮りてなり。レエマンの余が試驗に就きての演說醫事週報 Muenchener medicinische Wochenschrift № 51) に出づ。

明治二十年一月一日。午前零時加藤、岩佐、中濱及濱田の四氏と英骨喜店 Café l'Anglais の舞踏會に在りて、「プンシユ」酒 Punsch の盃を擧げ、新年を祝す。二時家に歸りて眠に就く。新年の祝詞には師父、軍醫總監ロツツベツク及大尉カルヽの家を巡りたり。橫山子來り訪ふ。此人は依然日本風なり。

二日。軍醫正キヨルチング Koerting 遙にハムブルクより書を寄す。其昇進して聯隊醫となれるを報じ、且曰く。此埠頭に來りて復た隊醫と爲るに意なき歟と。

十一日。昨日と今日との新聞 (№ 10, 11, 1887) にナウマン長文を作りて攻擊を試む。尤も笑ふ可きは日本顚覆の一段を筆記者の誤となして抹却し去らんと欲する一事なり。何ぞ其れ怯なるや。余駁拏烏蔄文第二篇を作る。師の閱を乞ふ。

十九日。ロオトの書至る。余が生誕を賀するなり。師と拜焉聯合銀行 Bayerische Vereinsbank に至り、其電氣燈及換氣裝置を覽る。

二十一日。ロツツベツクの舞踏會に招かる。細故あり行くこと能はず。

二十三日。自轉車俱樂部 Bicycle-Club 舞踏會を中央廳 Centralsaele に開く。余も亦與る。アルヌルフ王 Prinz Arnulf 余と語る。「スタアツラアト」Staatsrath 某、宮