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二月七日。朝家書至る。妹の歌に

こと國のいかなる鳥の音をきゝて
立かへる春を君やしるらん

ウユルツレル余を誘ひて拿破翁石 Napoleon-Stein に至る。方石あり。其面に耶蘇經文の一句を彫る。背には又數行の文あり。其の年拿破翁此丘上に立ちて親しく戰况を瞻るといへり。歸途來責渠道の泉源を觀る。碑を距ること遠からず。

十一日。化學士クレツチユマン Kretschmann 余を「サント、パウリ」St.Pauli 唱歌會に招く。

十三日。フオオゲルの家に晚餐する時、ルチウス氏馳せ至りて、面白き事ありと叫び、携ふる所の新聞紙を出して余に示す。紙上唱歌會の事を記せる中に、本會の名譽とすべき賓客には、梅格陵メツクレンブルグの上公及日本軍醫森君ありと記せり。

十七日。シヨイベ Scheube を訪ひ、其藏書を借る。余近ろ日本兵食論及日本家屋論の著述に從事す。故に引用の書を求めたるなり。ゲエゲンバウエル Gegenbauer の解剖書等三部の書を買ひて弟に送る。

二十三日至二十五日。自身に就いて榮養上の試驗をなす。(Selbstversuch) その成績完全ならざるがために世に公にせざりき。

二十七日。シヨイベの家に招かる。ベルツ師匠及萩原三圭座に在り。

三月三日。大學冬期の講畢りて講堂を鎖す。業房は鎖すことなし。

七日。ホフマン師の姑ウンデルリヒ Wunderlich 氏の柩を送る。

九日。家書到る。

十七日。(長)井新吉、姉小路某を伴ひて來責府に來ぬ。姉小路は久しくストラアスブルグ Strassburg に在りて政治學を修むる人なり。瘦軀にして美鬚なり。此を經てミユンヘン Muenchen に赴かんとすといふ。