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二十六日。篤次郞の書至る。志賀泰山敎授法の苛酷にして生徒の憤懣せるを報ず。因りて謂へらく。志賀の性人に對しては甚苛なれども、己に對しては甚寬なり。其親眷中の人を待つも、亦寬に過ぐ。嘗て德停府に來り、余と飮みて夜半に至る。余の曰く。請ふらくは我室に宿せよ。長椅あり。毛布あり。泰山の曰く。余は臥床ならでは眠ること能はずと。遂に客舍に投ぜり。是れ己に對することの甚寬なるに非ずや。泰山は已に嫁し、二兒あり。其の家に在るや、必ず洋饌を供せしむ。割烹甚だ精し。故に其子は東京市中の西洋料理店に往くごとに、料理の無味を責む。况んや米食抔はその耐ふる所に非ずといふ。若し此子にして或は旅行し、或は兵役に服する等の事あらば、其不便何如ぞや。余は泰山の其親眷中の人を待つこと寬に過ぐと以爲へり。志賀の性此の如し。固よりスパルタ Sparta 風の生活を好む余の首肯すること能はざる所なりと雖、余は只だ一技一藝ある人を棄てざるのみ。若夫れ伯林一友人の書中、志賀と云へる天保錢云々と云へるは、酷論の甚しきものといふべし。

五月十九日。家書至る。

二十二日。午前余猶試驗所に在り。エムメリヒ來て余に吿げて曰く。今日ヘルリイゲルスグロイト Helriegelsgreuth の村酒店を借りて學生の決鬪を行ふ。盍ぞ往いて觀ざると。余喜びて諾す。獨逸の學生は多く其の團 Corps 某の壯年一會 Burschenschaft と唱へ相結合して異様の衣を着、異様の語を吐く。是れ中古士風の遺にして、愛すべきところも少なからねど、亦弊害の甚しきものあり。卽ち決鬪是なり。夫れ壯年の士の劍を弄ぶは固より可なり。然れども爭論の末決を私鬪 Duell に訟へ、法律の許さゞる所に出でゝ自ら是とす。豈憎む可きにあらずや。况や身體を毀傷し、其の瘢痕に附するに名譽瘢 Renommirschmiss の名を以てするに於てをや。然りと雖、決鬪は戰爭と同じ。その廢絕は言ひ易くして行はれ難し。唯ゞこれを個人の良心に委ねずして社團の制裁に附するものは、獨逸大學の惡弊といふべし。哲學者ロオゼンクランツ Rosenkranz 嘗て詳にこれを論ぜり。學者讀まざるべからず。此日十一時滊車に上りてヘルリイゲルスグロイト村に赴く。發車場にて一人に遭ふ。容貌魁梧、朱顏白鬚、余を揖して曰く。君は日本人に非ずや。 失禮なる言にはあれど、君の面貌一目して其日本人たるを知る可きが若くなるに、亦大に葱嶺以西の民に似たる