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俱に一杯を傾けんことをと。余女を拉いて一卓に就き、酒を呼びて興を盡す。歸途女を導いて其家の戶外に至る。曰く。兒伯母と此に住む。晝間は冠肉厨 Kronfleischkueche (Frauenstrasse 12) に在りて酒を行る。兒が名をバベツテ Babette と爲す。請ふらくは一たび來り訪へと。余往いて訪はず。其眞僞を知るに由なし。客舘に歸りて眠に就く。室暖に褥軟なり。昨宵車中の苦を償ふに足る。

九日。到着屆の爲に奔走す。兵部省、軍團司令部、衞戍司令部等に至る。軍醫總監フオン、ロツツベツク von Lotzbeck, 軍醫正パハマイル Pachmayr を訪ふ。既にして大學衞生部に至る。助敎エムメリヒ Emmerich 在り。曰く師は家に在りと。卽ち其家に至る。輦轂街 Residenzstrasse № 1 (Hofapotheke, III Etage) に在り。濶大なれども華麗ならず。ペツテンコオフエル余を其作業室に延く。廣面大耳の白頭翁なり。弊衣を纏ひて書籍を堆積したる机の畔に坐す。余ロオトの翰を呈し、來由を陳ず。ペツテンコオフエルの曰く。緖方正規久く余が許に在り。余これを愛すること甚し。子も亦正規の如くならんことを望むと。辞して家に還る。

十日。衞戍病院 (Oberwiesenfeld) に至る。院は女神堡街 Nymphenburgerstrasse とダツハウ街 Dachauerstrasse との間なる高原に在り。長さ四百四十四米突、廣さ百三十四米突、病者四五百人を容る。 ミユンヘン府軍人の數は六千七百人許なる故、每百七、五の比準に當る。院內は淸潔ならず。德停府の病院に輸くること一着なるべし。醫官の服裝擧動も亦慊らざるものあり。醫長は軍衣に平服の襟と襟飾とを着けたり。一年壯兵醫某あり。廊上上官と會して帽を脱せり。パハマイル Pachmayr 余を延いて外科室を巡視す。又軍陣衞正部あり。軍醫正ポルト Port 之が長たり。ポルトは五十許の老人にて、軀幹長大なり。常に口を開き、放心の狀を爲せり。然れども性學を好む。嘗て兵營諸室の窒扶斯罹患死亡數を調査して、世人の注意を促しゝことあり。今急造材料法 Improvisationstechnik の試驗に從事す。樹枝、電線、硝子瓶等の其用を成すは世人の已に知る所なり。又貯肉罐を載りて種々の用に供し、生木の枝を折り、皮を去り、小刀にて輕く削り、繃帶品を製す。菌學室あり。ハンス、ブフネル Hans Buchner に此に逢ふ。夜民顯府醫會 Deraertzliche Verein in Muenchen の集同に赴く。チイムセンヰンケル Ziemssen, Winckel 等の諸家を見る。醫某