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明治十七年十月十二日。伯林に着きたる翌日なり。朝まだきに佐藤三吉わがシヤドオ街 Schadowstrasse の旅店 Hotel garni zum Deutschen Kaiser に音信れ來て、共にカルヽスプラツツ Karlsplatz の旅店 Töpfer's Hotel に宿れる橋本氏綱常がりゆかんと勸めぬ。詣り着きて、拜をなしゝに、橋本氏手をうち振りて、頭地を搶くやうなる禮をばせぬものぞと、先づ戒められぬ。後に人々に聞けば、歐州にては、敎育を受けたりといふ限の少年は、舞踏の師に就きて、いかに立ち、いかに坐り、いかに拜み、いかに跪くが善しと、丁寧にをしへらるゝことなれば、久くこの地にありて、こゝの人とのみ交り居りて、忽ち鄕人の粗野なる態度をなすさまを見るときは、可笑さ堪へがたきものなりとぞ。橋本氏はわれを延きて、フオス街 Vosstrasse 七番地なる我公使舘にゆき、公使に紹介せんとせしが、公使は在らざりき。又カイゼルホオフ Kaiserhof にゆきて、陸軍卿に見えしめむとせしが、こも亦外に出て玉ひぬとの事なりき。扨おのが旅店に伴ひかへりて、午餐をすゝめ、われに吿ぐるやう。政府の君に托したるは、衞生學を修むることと、獨逸の陸軍衞生部の事を詢ふことゝの二つにぞある。されど制度上の事を詢はんは、旣に隻眼を具ふるものならでは、えなさぬ事なり。われ今陸軍卿に隨ひて、國々を歷めぐれば、たとひ一處に駐ることは少きも、見得たるところ聊有りと覺ゆ。また詳に獨逸のみの事を調べしめんためには、別に本國より派出すべき人あり。君は唯心を專にして衞生學を修めよ。若本國より制度上の事問はるゝことあらば、姑く一等軍醫キヨルチング Koerting に結びおきて、相識りて答へば足りなむと諭されぬ。

十三日。橋本氏に導かれて、大山陸軍卿に見えぬ。脊高く面黑くして、痘痕ある人なり。聲はいと優く、殆女子の如くなりき。この日又靑木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして鬚多き人なり。龜井老公の紹介の書を出しゝに、福羽、八杉などの鄕人の上を問ひ、八杉がみまかりしをば、いたく惜まれき。公使のいはく衞生學を修むるは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緖挾みて行く民に、衞生論はいらぬ事ぞ。學門とは書を讀むのみをいふにあらず。歐洲人の思想はいかに。その生活はいかに、その禮儀は