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名所旧蹟

(一)東南部(猪鼻臺より千葉寺方面

◎猪の鼻臺 街の中央部東の方に當り、嶬●として聳えてゐる山は是れ千葉町第一の勝地猪の鼻城の古跡だ。臺の上に亭々たる古松の一枝は垂れて街を睥睨してゐるやうである。扨臺に登って眼下を見れば、織るが如き町の賑ひ、其處此處に建つ公設官衙、停車場から寒川に向つて走れる一筋の道、道の端れには漁家と覚しい疎末な屋根が重なり合つて見える。其の先は町よりは高く、遙か斜めに傾きかゝてゐる浩●たる海面で、飛び交ふ鷗、往来ゆきゝの白帆も眺められ、西北の方潮續きには、寄せた藻の一つら青々と残つて居る登戸の磯や、稲毛黒砂の丘や洲が、模糊として霞み。更に目を轉じて東北の方を望めば町とは一帯の田畑を隔てゝ千葉監獄の赤瓦、東臺の丘には鐵道聯隊の営舎も見える。更に夫れ南方の展望は、相馬日記に「安房上總の山々も海のあなた及ぶ計りに見渡さるゝ所なり」と記してある如くである。而して比所を猪の鼻と稱する所以は、平良文の曾孫常将が下総権介に任ぜられたに次で、其孫常兼も亦下總権介に任ぜられ、居城を上總の大椎に移した處、其子常重は大椎は守介の地に適しないのを知つて大治元年此地に城を構ふるに至つたので、猪は獣類の中ても最も猛勇なるもので殊に其鼻の先に恐ろしいカがあるから、猪鼻城と名付けたとも云ひ、又此地町の戊亥の方位に當つて突出して居るので斯く名付くるに至つたとも云て明かでない。そは兎も角當時猪鼻城の廣さは醫學専問學校から鮒田の池に迄及び宏壮たるものであつたが、後年千葉介胤直の世に、同族中寒川の領主原越後守胤房と千葉寺附近の主圓城寺下野守尚任とが、權を爭つて確執を生じ