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現に千葉神社の隣にあり。千葉氏累代の菩提所てあつたが、中世以後は頗る荒れすさみ、寶物等は多く千葉寺に歸した。併し常将三代の孫千葉介常兼以降胤将迄十六世の墳墓は今も境内に在る。尚境内の薬師堂は本堂と共に、明治十四年火災の際に焼失し、什物等は悉皆烏有に歸したのて、現に残ってゐる主な物は、月日星三光の御鏡と云ふ直径一尺位の鏡てある。是れは安元年中胤政の奥方が子が無いのを憂ひて、薬師堂へ七日間午の刻参りをしたら、其の暁に月日星三光の鏡が胎内に入った夢を見、忽ち懐妊して長子加會利權之介を生み、後十一人迄設けたので、此鏡を本寺へ奉納し、爾来此鏡を子安鏡と名付け、鏡の裏面を摺物にして子の無い女の裸守はだかもりにすると霊験忽ち現に懐妊すると云ふ事てある。

△満蔵寺 場所は寒川片町、本奪には阿弥陀如来を安置し、曹洞宗である。而して本寺は、後華園院の御宇、赤松満佑の軍と足利の軍と相闘つた所なので、結城山と號してゐる。其の時斃れ死した士卒の甚だ多かつたので、追福を祈る爲め、永享十二年足利の老臣中川關之丞良久に依って創建された。稱名堂外に満ち、偏く萬徳を蔵むる故に満蔵寺と命名するに至つたのてあると。

△光明寺 吾妻町二丁目に在る。今其の由結を聞けば、千葉家二十五代勝胤の六男なる當時の本寺妙見寺座主常覚大僧都が、永禄九年に創建たてたもので、天正十九年には徳川家康公東金御巡行の折妙見寺へ御止宿になり、其節境内除地として、下されたと云ふ事である。本奪は不動明王、境内處空蔵堂は明治十四年火災の爲め焼失した。

△正妙寺 是れ宗祖日蓮の徒弟師阿闍梨日高が、正和元壬子年の四月に創立し、本奪は多寶佛、釈迦仏及び宗祖日蓮であつた、場所は本町一丁目だが、明治廿九年長崎縣下へ移転して今は無い。