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(二)佛閣

千葉寺せんえうじ 阪東三十三ヶ所観世音、二十九番の霊場、海上山千葉寺は、千葉町の南端なだらに高き千葉寺區にあり。真言宗の中本寺て、新義派に属し、和銅二己酉年行基菩薩が比地に来り、櫻樹を以て十一面観世音を刻み、唐の西明寺宗鑑大師の作聖觀音を腹寵として是れを安置し開山した。後聖武天皇より道場を三界六道に、寺號を海照山(後に海上山と書く)觀音院青蓮千葉寺と勅諚を賜はり、伽藍頗る荘厳であつたが、永暦元年雷火の爲めに、多くの什寶と共に悉く焔焼した。時に本尊の観世音は西方八丁も隔つてゐる。高地の櫻樹に懸つて災厄を免れたので、爾来該櫻樹を真木と稱へ、大治元年千葉介常重之れを修築、堂宇を真木の側らに移し、建久三年常胤是れを管轄した。夫れ等の譯から村民は今でも櫻を薪材には用いないとの事である。■して■に雷火に罹つた永暦から安政に至る迄には、前後四回の兵■に罹つたとの事である。而して往古寺領は千葉寺村を統轄して居たのだが、織田信長天下に令し、一旦所領を十分の一に減ぜしめられ、後天正十九年辛卯十一月徳川家康の幕府になつて、先の如く朱印地百石を賜はる事になった。

△来迎寺 本寺は北道場に在り、本尊は毘首羯摩の作にかゝる阿弥陀如来の立像で日本三體の一に数へられてゐる。健治年間時宗の開祖一遍上人の創立にかゝり、京都智恩院の末寺で知東山来光寺と號してゐたが、天正十八年萬里小路秀房卿の男正親町天皇の御猶子満譽尊照大僧正が、家康の命に依つて是れを中興し、浄土宗とし来迎寺と改め代々千葉氏の歸依する所となつて、氏郷等七基の墓碑は現に同寺に存してゐる。

△大日寺 阿比留山大日寺は天平質字元年仁生菩薩の開基で、真言宗に爲し