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命名してからである。恐らく千葉と云ふ文字は葛繁の葛の葉が繁ると云ふ意みから出たのてはあるまいかと察せられる併し乍ら奈良朝時代に千葉と書けば即ち千葉せんようと讀ませる筈であるから、知婆の字に代るに千葉の字を以てして、ちばと訓讀させるようになったのは遥か後の事てなければならない。
尚千葉家の記録に依ると、平直常が始めて千葉の地へ来て、池田の鄕に城を構へるに當り、忠常の言として「此地を千葉と稱するのは、我祖先葛原親王の御名に意を借りたものに違ひない、さすれば吾等は葛の葉の繁るが如くに蔓延つて世に勢ひを示さなければならぬ、のみならず知波の語は萬葉集の如き古書の中にも用ひてあり、吾等が此所に城を構ふるに至ったのは洵に因縁ありと云ふべしだ。故に以後は氏を千葉氏と名付けようとて、子常将よりは是れを氏とした」とある。乍併知波と云ふ字は萬葉集以前の諸書にも見へてゐるので、其一事を以ても、武人忠常は斯る事には多く頓着しなかつた事は察せられるし、葛原親玉の御名から、千葉の字を案出するに至ったのてあらう抔云ふに至っては餘りに我田引水の説てはあるまいか。

△千葉氏以前 以下少しく千葉町の沿革に就て記せば、成武天皇の御代に、國縣の制が布かれ、千葉の地に國造くにのつかさの置かれた以後の事は國史にも明らかにされてゐる處で、續いて千二百年前元正天皇の御代に、里を廢して郷の置かれた時、千葉の郷となし、代々其の制に依つて居た處、降って藤原氏が権勢を振ふやうになつて、國司と雖是れを自由に制し難く、私有地の制を設けて井を荘園と名付る事になつて以後は、千葉の地は何人の所有に属してゐたものか今夫れを知る事は出来ない。

△千葉氏の代 以上は千葉氏以前の歴史の大要である。夫れより永承年間に至