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陷りたるものに就き予は爰に多少の辯を加へんとす。是れ即ち『義理』なり。字義より推せば、義しき道理なり。然るに時と共に移りて、義務の朦朧たる觀念となり、俗論は人に俟つに之に遵ふべきを以てするに至れり。『義理』の有せる本來無垢の旨意は、純粹簡明なる義務の謂なりき。されば、父母、長者、臣僕より、大にしては社會に對し、國家に對して、負ふべき義理ありなど云ふ時、其義理とは即ち義務の意なり。然り、義務とは即ち義しき道理の要求命令するものに非らざる無き乎。義しき道理とは、人に於ける無上命令カテゴリカル、インペラチーヴたるべきものにあらずや。

 義理とは原、義務を謂ふに外ならざりき。而して此字義の由來する所を料るに、其故あり。人の行爲、例せば、父母に