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Page:Bushido.pdf/49

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士道に與ふるに服從抑損の念を以てして、若し之を缺かんには、忽ち傲岸粗野の性癖に陷り易きより免かれしめたり。神道の敎理は、基督敎所信の原罪說を容れず。此れに反して性善を信じ、六根は元、神明の如くに淸淨なりとし、靈魂を神の宮たる人心の至聖殿に祭り、此れよりして神託を聞くものなりとす。試に神祠に賽せんか、社殿の裏、禮拜の物體、祭具の多きを見ずして、靈廟唯だ質素なる一面の銅鏡を懸くるあり。此鏡面を懸くるの理は、以て人心に象り、此心若し曇らずば、神明の靈姿を映ずべしとの義なり。故に人若し神社に詣づれば、我貌の神鏡に映ずるを見るべく、禮拜の旨趣は、希臘デルフアイの宮の託宣に『己を知れ』とあると、其歸を齊しくするものなり。されど希臘の宗敎にても、日