あるを認めず。功利說、唯物說の損益哲學は、靈魂の半ば喪失せる理窟揑造屋の稱好するものなり。而して功利說、唯物說と角逐するに足るもの唯だ一基督敎のあるあり。之に比すれば、武士道は、救世主の消すこと無く、煽りて熖となさんと宣言せる『煙れる葦』の如し。基督の先驅たる希伯來の豫言者、就中イザヤ・エレミヤ・アモス又たハバククと等しく、武士道は、特に治者、公人及び國民の道德行爲を重視す。然るに基督の倫理は、殆んど全く個人と其信奉者とに係りて、個人主義が道義の因子たるの資格よりして、其勢力に發達すると共に、愈よ其實効に於て增益する所あらん。或は武士道に髣髴たるもの無きに非らざる、ニーチエの專權自彊なる主人道德は、若し予にして大過なくんば、即ち彼が又