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きに至りては不條理に失すとせん。徃年、モンテスキユーはピリニース山脈の一側に於て是なるものも、其他側に於ては非なりと歎ぜり。近時、ドレフユーの審判は、其言の眞なるを證し、亦た啻にピリニース山脈のみ、佛國正義の可否を分界するに非らざるを示せり。此れと等しく、日本人の懷抱する如き忠節は、國を異にして、之を頌するものゝ、幾ど稀なるを見ん。然れども此れ、吾人の槪念の非なるが故に非ずして、却つて恐る、彼れにありては旣に之を忘却せるが故にして、又た日本人の忠節の念に深厚なるは、他國の未だ容易に企及する能はざるものあるが爲なるなからん乎を。グリフイス氏が、支那に在りては、孔敎は孝を以て百行の基と爲し、日本に在りては、忠を以て本と爲すと說けるは眞に