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Page:Bushido.pdf/107

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ほ大に益する所あり。然るに其用は獨り此れに止まらず。禮は慈悲辭讓の心より發し、人の感覺を察するの溫情を以て動き、即ち不忍の心の優美なる表示なり。禮は悲む者と共に悲み、喜ぶ者と共に喜ぶを要す。而して此種の敎訓的節文の日常瑣細の事故に應じて現るゝ時、行爲の些小なるが爲に、多くは看過して、之を認むること難く、又た若し之を認むることあらんには、二十餘年間我國に滯在せる一外國婦人宣敎師の、曾て予に語りたるが如くに、『酷だ笑ふべきオーフリー、フアンニー』ものたり。人あり、炎々たる日中、傘を携へずして戶外を步み、偶ま面識あるものに逢ひ、會釋すとせよ。其人即ち帽を脫す、―好矣、これ大いに可し。されど酷だ笑ふ可き行爲と目すべきは、彼れの語る時、傘を傾けて、又た炎々たる日光の