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Page:Bushido.pdf/104

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séanceは語源上『端坐』の義)も亦た深長なる新意義を加へ來るにあらずや。

 優美は即ち力の經濟法なりとの前提を眞なりとせば、從つて論理上よりして、常に優美なる容儀を修むるは、此れと共に勢力の豫備蓄積を生ずとの說に歸着せざるべからず。故に典雅の姿勢は力の休止を表す。彼のゴールの蠻民が、羅馬を掠奪し、元老院に亂入して、尊貴なる元老の髯を引毟るの暴行を敢てしたるの責は、寧ろ蠻民に在らずして、却つて、尊嚴と態度との威力を缺きたる彼の元老に歸せざる能はず。然りと雖、人或は云はん、區々たる禮儀の、爭でか能く高遠なる精神的造詣の道たるを得べきやと。されど知らずや、西諺にも『路皆、羅馬に通ず』と云へるを。