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するものなり。

 旣に云へるが如く、禮の道は精緻を極めて、委曲纎巧となりたるよりして、遂に作法を異にせる多岐の流派を生ずるに至りたりと雖、此等は要するに其大旨に於て竟に歸を同じうせざるは無く、其極意は小笠原流禮法の宗家たる小笠原淸務氏の語る所によりて明かなり。曰く、『禮道の要は、心を練るにあり、禮を以て端坐すれば、兇人劒を取りて向ふとも害を加ふること能はず』と。即ち換言せば、人は常に端正なる容儀を修むるが爲、身體の諸部に於ける各官能を圓滿に整へ、而して其身體自から善く外物と調和し、斯して靈の肉に勝つを表現するに至るとの意なり。此れによりて之を見れば、佛國語にて禮容を云ふ『ビインサンス』(Bien