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を待たず。その抽んでたる所以ゆえんは、他集の歌がごうも作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧の歌に曰く

いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの

「いつはりのたくみ」『古今集』以下皆これなり。「誠」の一字は曙覧の本領にして、やがて『万葉』の本領なり。『万葉』の本領にして、やがて和歌の本領なり。我うところの「ありのままに写す」とはすなわち「誠」にほかならず。後世の歌人といえども、誠を詠め、ありのままを写せ、と空論はすれどその作るところのかえっていつわりのたくみを脱するあたわざるは誠、ありのまま、の意義を誤解せるによる。西行のごときは幾多の新材料をれたるところあるいはこの意義を解する者に似たれど、実際その歌を見ば百中の九十九は皆いつわりのたくみなるを知らん。趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。

 されば曙覧が歌の材料として取りきたるものは多く自己周囲の活人事かつじんじ活風光かつふうこうにして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎しのぶのや歌集』を見る者のまず感ずるところなるべし。彼は自己の貧苦を詠めり、彼は自己の主義を詠めり。亡き親を想いては、「親ある人もあるに」と詠み、亡き子を想いては、「きのふたもとにすがりし子の」と詠めり。行幸の供にまかる人を送りては、「聞くためしだにうれし」と詠み、雪の頃旅立つ人を送りては、「用心してなだれにふな」と詠めり。たのしみては「楽し」と詠み、腹立てては「腹立たし」と詠み、鳥けば「烏啼く」と詠み、いなご飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香ににおふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、見もせぬに遠き名所を詠み、しこうして自然の美のおのが鼻のさきにぶらさがりたるをも知らぬ貫之つらゆき以下の歌よみが、何百年の間、数限りもなくはびこりたる中に、突然として曙覧の出でたるはむしろ不思議の感なきに非ず。彼は何にりてここに悟るところありしか。彼が見しこと聞きしこと時に触れ物に触れて、残さず余さずこれを歌にしたるは、杜甫とほが自己の経歴をつまびらかに詩に作りたるとあい似たり。古人が杜詩を詩史と称えし例にならわば曙覧の歌を歌史ともいうべきか。余が歌集によりてその人の事蹟じせきと性行とを知り得たるもその歌史たるがためなり。しかれども彼が杜詩より得たるか否かは知るによしなし。ただ杜甫の経歴の変化多く波瀾はらん多きに反して、曙覧の事蹟ははなはだ平和にはなはだ狭隘きょうあいに、時は逢いがたき維新の前後にありながら、幾多の人事的好題目をその詩囊しのう中に収め得ざりしこと実に千古の遺憾いかんなりとす。

〔『日本』 明治三十二年三月二十六日〕


『古今集』以後今日に至るまでの撰集、家集を見るに、いずれも四季の歌は集中の最要部分を占めて、少くも三分の一、多きは四分の三を占むるものさえあり。これに反して四季の歌少く、ぞうの歌のいちじるしく多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以ゆえんなり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際よりづ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋の歌も全く題詠となり、雑の歌も十分の九は題詠となりおわ