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に進級と同時に歩兵第四十一連隊付に、越えて同十年八月一日台湾歩兵第一連隊付に補せられ未だ赴任するに至らずして同月二十三日待命仰付けられ、ついで同年十月十一日予備役仰付けられたるが、かねてより尊皇の念厚きものなる所昭和四、五年頃より我国内外の情勢に関心を有し、当時の情態を以て思想混乱し政治経済教育外交等万般の制度機構いずれも悪弊甚しく皇国の前途憂慮すべきものありとし、之が革正刷新所謂昭和維新の要ありと為し、爾後同志として大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一等と相識るに及び益々其の信念を強め、同八年頃より昭和維新の達成には先ず皇軍が国体原理に透徹し挙軍一体愈々いよいよ皇運をよくし奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず陸軍の情勢は之に背戻するものありとし、其の革正を断行せざるべからずと思惟するに至りたるが、

同九年三月当時陸軍少将永田鉄山の陸軍省軍務局長に就任後、前記同志の言説等に依り同局長を以て其の職務上の地位を利用し名を軍の統制にり昭和維新の運動を阻止するものと看做みなりたる折柄、同年十一月当時陸軍歩兵大尉村中孝次及び陸軍一等主計磯部浅一等が叛乱陰謀の嫌疑に因り軍法会議に於て取調を受け、次で同十年四月停職処分に付せらるるに及び、同志の言説及其の頃入手せる所謂怪文書の記事等に依り、右は永田局長等が同志将校等を陥害せんとする奸策に他ならずと為し深く之を憤慨し、更に同年七月十六日任地福山市に於て教育総監真崎〔甚三郎〕大将更迭の新聞記事を見るや、平素崇拝敬慕せる同大将が教育総監の地位を去るに至りたるは是亦永田局長の策動に基くものと推断し、総監更迭の事情其の他陸軍の情勢を確めんと欲し、同月十八日上京し翌十九日に至り一応永田局長に面会して辞職勧告を試むることとし、同日午後三時過頃陸軍省軍務局長室に於て同局長に面接し、近時陸軍大臣の処置誤れるもの多く軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辞職せられたき旨を求めたるが其の辞職の意なきを察知し、

くて同夜東京市渋谷区千駄ヶ谷における前記西田税方に宿泊し、同人及大蔵栄一等より教育総監更迭の経緯を聞き、且つ同月二十一日福山市に立帰りたる後入手したる前記村中孝次送付の教育総監更迭事情要点と題する文書及作成者発送者不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する所謂怪文書の記事を閲読するに及び、教育総監真崎大将の更迭を以て永田局長等の策動に依り同大将の意思に反し敢行せられたるものにして本質に於ても亦手続上においても統帥権干犯なりとし痛く之を憤激するに至りたる処、たまたま同年八月一日台湾歩兵第一連隊付に転補せられ、翌二日前記村中孝次、磯部浅一両人の作成に係る粛軍に関する意見書と題する文書を入手閲読し、一途に永田局長を以て元老、重臣、財閥、新官僚等とよしみを通じ昭和維新の気運を弾圧阻止し皇軍を蠧毒とどくするものなりと思惟し、此の儘台湾に赴任するに忍び難く此の際自己の執るべき途は永田局長をたおすの一あるのみと信じ、遂に同局長を殺害せんことを決意するに至り、同月十日福山市を出発し翌十一日東京に到著したるも尚永田局長の更迭等情勢の変化に一縷の望を嘱し、同夜前記西田税方に投宿し同人及来合せたる大蔵栄一と会談したる末、自己の期待するが如き情勢の変化なきことを知り、ここに愈々永田局長殺害の最後の決意を固め、

翌十二日朝西田方を立出たちいで同日午前九時三十分頃陸軍省に到り同省整備局長室に立寄り、かつて自己が士官学校に在勤当時同校生徒隊長たりし同局長山岡[重厚]中将に面会し、対談中給仕を遣わして永田局長の在室を確めたる上、同九時四十五分頃同省軍務局長室に到り直にび居たる白己所有の軍刀 (証第一号) を抜き、同室中央の事務用机を隔て来訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫にいみひでおと相対し居たる永田局長の左側身辺に急遽無言の儘肉薄したるところ、同局長が之に気付き新見大佐の傍に避けたるより同局長の背部に第一刀を加え同部に斬付け、次で同局長が隣室に通ずる扉迄遁れたるを追躡ついじょうし其の背部を軍刀にて突刺し、更に同局長が応接用円机の側に到り倒るるや其の頭部に斬付け、因て同局長の背部に長さ九、五糎深さ一糎及長さ六糎深さ十三糎、左顳部さしょうぶに長さ十四、五糎深さ四、五糎の切創ほか数箇の創傷を負わしめ、右刀創に因る脱血に因り同局長を同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ以て殺害の目的を達し、

尚前記の如く永田局長の背部に第一刀を加えんとしたる際、前示新見大佐が之を阻止せんとし被告人の腰部