Page:三浦郡誌.pdf/15

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或は滿󠄃昌寺邊の涓聲に古武士の面目を聽き、或は田越橋畔󠄁の孤墳に平󠄁家の哀史󠄁を繙く。櫻の御所󠄁は柳營屢々花󠄁下に宴舞を催せし地、將軍春草を䠖んで、龍蹄幾度か往返󠄁せし、三浦氏、百年の興亡を經とし、源平󠄁角逐、公󠄁武確執、群雄割據を緯として成れる中世の三浦は感殊に深きものあり。更︀近󠄁世に至れば江戶城に對する位地により、著目すべき歷史󠄁尠からず。徳川氏の初期其の外交󠄁援󠄁けて蘭︀、英兩國との交󠄁通󠄁に偉勳を樹てし三浦按針の舊領は横須賀市逸︁見に在り、其の一岡には夫婦の墓碑幾春秋の雨露を閱して、靜かに帝國の發展を眺めつゝあり。更︀に久里濱海︀岸には徳川氏の末期、萬里の波濤を凌ぎて、長途󠄁我國に使して、偉大なる成︀功を嬴ち得て、我が開國史󠄁の第一頁を飾󠄁れるコモドル、ペリー上陸の記念碑あり、其の北西浦賀港󠄁鎌󠄁倉時代よりの良港󠄁にして、三百年の古、呂宋南蠻の商舶寄港󠄁し、關東唯一の貿易港󠄁となり、回船󠄂所󠄁を置かれて諸︀國の商船󠄂輻湊し、帆檣日夜に絕えざる盛觀を極め幕末に及󠄁びては、對外接衝の地となり、天下の視︀聽を聳立せしめし地なり。翠󠄁綠掬すべき夏嶋は帝國憲︀起󠄁草の故地、熱閙殷賑を極むる横須賀市は帝國海︀軍發達󠄁の基を成せし地なり。三浦三崎と傳唱せらるゝ三崎町には徳川幕府の海︀將向井氏一族の墓及󠄁び其の邸址あり。擧げ來れば、我が半󠄁嶋の史󠄁蹟は、悉く此れ、國史󠄁と密邇なる關係を有す。

 此の淸秀の地に、此の豊富なる史󠄁蹟あり。半󠄁嶋三浦は實に名所󠄁にして史󠄁蹟を兼󠄁ぬるもの、其の名聲の顯はるゝ豈偶然ならんや。加之も此の名所󠄁史󠄁蹟を輯錄したる書籍の名あるもの、徳川幕府の編󠄁纂せる新編󠄁相模國風土記、加藤山壽の三浦古尋󠄁錄、無名氏の三浦明細記、岡田綠風の三浦繁昌記、佐藤秋蛾の三浦大觀ありと雖、或は旣に時世の隔󠄁絕して、今時と所󠄁見の異るあり、或は繫に過󠄁ぎて薰猶󠄂同列なるあり、或は簡に失して隔󠄁靴󠄁搔痒の嘆︀を催さしむるものあり。而して、今や、三浦大觀の他は、旣に坊間に於ては、罕に見る所󠄁のものに屬す。

 大正四年秋十一月、車駕西幸して、親しく旣位の大禮を行はせ玉ふ。時の三浦郡敎育會長北野右一氏