A.D.1678. ジェネラル・バプテスツ--正統信条 AN ORTHODOX CREED

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目次

第I.条 神の本質について[編集]

わたしたちはまことに信ずる、それはそこに一つの、(申命記、6.4.)一人生きていて、(申命記、5.26.)そして本当の神;(ヱレミ10.10.)その方は、彼自身生存して居て;(出エジ、3.14.)その方の本質は理解する事が出来なく(詩篇、147.5.)少しの彼自身の;最も純粋で、霊的、(ヘブル、1.13. 申命記、4.15,16.)かまたは目に見えない生存して居て:(コロサイ、1.15.)その方は絶対の、独立した、「変わり得ない」、そして無限の存在で;それから出ない物質は無い、体、部分、または激情に於いて。(使徒、17.28. ルカ、24.39.)
わたしは主である、わたしは変わらない、マラキ、3.6.「神は霊者」で、ヨハネ、4.24.今永遠の王にあり、永遠から永遠へ、アーメン。ティモ第一、1.17.あなた彼の声を聞いた、然し似た方を見たことが無い、申命記、14.12.

第II.条 神に帰する神性[編集]

全ての天と地上の分子は、無限の在って在る者にわたしたちは導かれ、(神の御名)彼は単一で、(すなわち)ほんの一つから完全な行為まで、構成無しに、(ヨハネ、5.26.ヨハネ第一、1.5.)そして完璧の海の巨大があり;彼はただ一人永久にいまし、終わりなき時間なしに、(マタイ、5.28.出エジ、6.3.イザヤ、40.28.詩篇、90.2)彼は「巨大な」存在であり、いつもあらゆるところにある存在である;(ヘブル、6.17.ヤコブ、1.17.)自ら存在し、かまたは意志もである、(マラキ、3.6.民数記、23.9.)(言葉の中に)神は無限であり、万有的である、有限でなく、そして最も聖なる「圧縮的でなく完璧な方」、(レヴィ、20.26.)賢く正しい方であり、(ローマ、16.27. 詩篇、119.68.申命記、32.4.)そして彼自身、神聖である。(出エジ、34.6.)最も慈悲深く、優雅で、誠実なそして真実である、たくさんの愛の泉であり、そして彼はそのような完全である、「神の意志の主権者であり」最高の存在の「アルファ」である。(イザヤ、41.4.ヨブ記、33.13.)
「それは真実であり、確かに、それは神は地上に住まわれる?天を見る方であり、そして天の天も汝を入れる事が出来ず:どんなわたしが建てたこの家でさえもそうでは(:お入れすることは出来)ない」列王第一8.27.「主は偉大であり、そして賛美に値する方であり、そして彼の偉大さは圧縮できない」。詩篇、145.3.

第III.条 聖なる三位一体について[編集]

この神的中にあって、そして無限の存在であり、また唯一の神はかしらであり、それらは三つの個性があり、やまた本質もである、(ヨハネ第一、5.17.ヨハネ、15.26.コリン第一、13.13.創世記、1.26.マタイ、3.16,17.)その父と、(ヨハネ、5.17.ガラテ、1.13.)その言葉、かまたは御子、(マタイ、16.16.)そしてその聖霊である、(マタイ、12.32.)それらは一つの本質であり、(ヘブル、1.13.)力、(ヘブル、1.3.)永遠性、(黙示、1.8.)そして意志;(コリン第一、12.6,11.)それぞれが全くの神的真髄を持ち、まだ神髄は分離させられず。(ヨハネ、14.11.ヨハネ第一、5.7.)その父以外はだれもいなく、またなお進んで儲けられることもいなく;御子は永遠に父より設けられ;聖霊は父と子の進行で。(ヨハネ、15.26.ガラテ、4.6.ペテロ第一、1.11.)全ての「無限」のはじまりは無く、そこからしかし一つの神、彼は「分割できない」、そして自然の中に分かれていない、かまたは存在は、然し財産を分割しないことによってそして個人的な関係によって見分ける;そしてしかし「一つの神」;それは三位一体の教義、わたしたちと神と一緒の共にいる事のすべての土台であり、(コリン第二、13.14.)そして彼に従属した慰めである。
そしてそれは「天にて記録を有する者三(みっ)つあり、その父、その言葉、そして聖霊である、そしてそれらは一つである」、ヨハネ第一、5.7.バプテスマを彼らに施し、この名前に於いて、父、子、そして聖霊、その他雑(ほかざつ)。マタイ、28.19.

第IV.(4)条 神的自然性、とキリストの神的頭について[編集]

わたしたちは告白し信ずる、神の御子は、かまたは永遠の御言葉は、非常にそして真の神のものである、(ヨハネ、5.20.ヨハネ、1.1,-3.)父からただ独り本質なる個人として彼は得られた、(ヘブル、13.コリン第一、15.16,17.)そしてまだなお神ご自身でさえ、そして父の子である、永遠の子として永遠の父から;初めより後無しに、(フィリ、2.6.)彼の父よりの減少無しに、父の間中全く御子として父と交友を持ち、彼は彼自身全く保持された、なぜならばお二方は無限であるからである;(ヨハネ、16.27,28.同、1.18.)自然の不平等無いからである、神の本質無しに、造られたものでない、創造された者で無い、採用された者で無い、すべての時の前に彼は生まれた;(イザヤ、40.11,12,22.)隠喩でなく、神の下級の者であり;(黙示、1.8,11.)神の職務でなく、しかし自然の神と同等であり、(フィリ、2.6.)父と共に永遠に共存する;(イザヤ、9.6.ヨハネ、17.5.)そして聖霊も。
イエスは彼らに言われた、本当の本当にわたしはアブラハムの前よりいる、ヨハネ、8.58.イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じである、ヘブル、13.8.ダビデは彼を主と呼んだのであればどうして彼の子であろうか?ルカ、20.44.

第V.(5)条 三位一体の第二位格の受肉されたことについて[編集]

わたしたちはただ神の独り子が生み出されたことを信ずる、第二の位格が神聖な三位一体、(ヨハネ第一、5.7.)彼自身が真なる現実的な肉の体を取られた、(イザヤ、7.14.ヨハネ、1.14.ルカ、1.31,32.ヘブル、2.16,17.ヨハネ、19.36,37.)そして理性的な魂であり、(マタイ、26.38.)時が満ち孕まれて、(ルカ、2.6,7.)聖霊によって、(ルカ、1.35.マタイ、1.18,20.23.25.ガラテ、4.4.)処女マリヤから生まれ、(ヘブル、4.15.同、4.4.)人として真の優れて来て、すべての事柄が私たちの上に於いて、わたしたちの虚弱の中にわたしたちと等しく、ただ罪のために除かれ;(ヘブル、4.15.同、2.13,14.)彼の妊娠し、生まれ、生き、(ルカ、2.52.)そして死亡したことによって現れた。彼は女からの者で、(ガラテ、4.4.)聖霊の力によって、超自然的な奇跡的な方法で、ただ胤をもって、かまたは処女マリヤの実体で形作られ、その点としてかれは人の子の名前として敬意を受け、そして真のダビデの子孫として、処女の胎の実として、(創世、26.17.ヘブル、2.16.)そして遂にはアダムの代わりに死亡した。

第VI.条 キリストの両性について[編集]

わたしたちは神の子の位格を信ずる、存在する永遠からの位格である、人の自然の純粋の最も憶測するものである、(ヘブル、2.14.)(その自らに現存する位格の足りない)(ヘブル、2.16.)彼の位格の統一性は中にある、かまたは神が頭の、(使徒、20.28.)そして彼の自らそれを造った;自然の両方の保存する財産の、そしてこの分離、溶解できない自然の両性の結合は、聖霊によって造られ、処女の胎の中に置いて聖別され、(マタイ、1.20.)自然のどちらでも変わることのない、両性の混合をもできない;(ルカ、1.35.ローマ、1.3,4.)そして二つの自然は一つのキリストに、神-人、かまたはインマヌエル、神わたしたちといます。(マタイ、1.23.ティモ第一、3.16.)それは人の奥義でまさに神秘で、天使たちも不思議で、一人の調停者、イエス・キリスト、神の子である。(ティモ第一、2.5.)

第VII.条 適切な連絡について[編集]

わたしたちは信じる、それは二つのキリストに於ける自然性である、引き続きまだなお明白な属性があり、適切に、そして行動的に、(ヨハネ、10.30.同、5.26,27,30.ヨハネ第一、4.9.マタイ、9.6.)そして一つに同じキリストが留まっている:(ヨハネ、7.4.)頭の神が人間の近くに適切に同意することは出来ない、また人の近くに適切に、頭の神が適切に、頭の神がかまたは神的自然はかわくことも、飢えることも、人の事はすべて、それは出来ない、多くの場所で一回も、それから、わたしたちは神が頭の曲がって注ぎ移すことも無いし人間の近くの、神が頭の人間の必要を両方ともできない、神的自然は彼の本質的な適切を全く保たない、それ自身で、そう人類の全能の全知の偏在もしない:そして人類の保つ適切な、しばしば適切な自然の一個だけれども、個人に関して他から命令した、(使徒、20.28.コリン第一、2.8.ヨハネ、3.13.マルコ、2.10.)それは必ず形を理解したSenecdoche,(すなわち)一つの部分を取ると全体が、結合の両方の自然と個人の理由によって、ここから知覚する、わたしたちは神に愛されているが、彼はわたしたちの生命より下に横たえた、ヨハネ第一、3.16.

第VIII.条 聖霊について[編集]

わたしたちはそこにただ一つの聖霊があることを信ずる、この神聖な三位一体の第三位格の生存するものである;(ヨハネ第一、5.7.マタイ、28.19.創世、1.26.)父或いは子の一つのものである、それは凄くそして真の神である;の自然の属性である、父と子と一緒の、(使徒、5.4.コリン第二、13.13.コリン第一、12.6,11.イザヤ、6.8,9.使徒、28.25,26.)同質の平等の永遠に存在する父と子と一緒に、それは父と子と一緒にである、三つの位格は、しかし一つの永遠と全能の神である、(イザヤ、6.3.)全ての衆軍と聖徒たちと天使たちによってあり、永遠の栄光によって生じたものであるそしてハレルヤの。アーメン。

第IX.(9)条 予定と選びについて[編集]

神の命令は知恵の無限の基礎と永遠の位置付けがされる、(イザヤ、46.10.使徒、15.58.)そして冠と、一緒の場合の絶対誤りがないこととであり、今の生命の上の予定は神の永遠の目的である。何によって世界の基礎が横たえられたか、彼はわたしたちに秘密の彼の中の一定の命令を持っている、(エフェソ、1.4.ローマ、11.33.)破滅と呪いからの救いは、それらのキリストの中に選ばれた人たちであり、(ローマ、8.30.)そして永遠の救いを彼らに持って来る、誉れに容量を造り、イエス・キリストを通して、彼は世界の基礎を置く前に選ばれ、(ペテロ第一、1.19,20.)そして選びのために神に召され、それらの彼の魂を大喜びさせた;(イザヤ、42.1.マタイ、12.17,18.)小羊によって前に運命が定められ;(ルカ、23.35.ペテロ第一、1.9.)そしてそう連合の実在の栄光の最高の上に予定された。(ヨハネ、1.14.ヘブル、2.16.コロサイ、2.9.)そしてこの自然の彼の人間性の中の聖なる予知の少しもない(連合の実在がそれから流れるように出て)ほんの恩寵の選ばれたと言う、彼の神秘体のすべての仲間。(ティモ第一、1.9.)そして父なる神はこの彼の選びと最愛な子、人々に契約と、そして言った、「その契約は彼と共に固着し立ち;そして彼の胤は永遠に耐えて」、(詩篇、89.2,3,4,18,-20,34,35,27.)そしてたとえ父なる神でもわたしたちに意味する彼はすべての善い事柄の原因の効果である、(ヨハネ、3.16.ヨハネ第一、4.9,10,19)まだキリストは選びの中にわたしたちを意図して神のすべてのそれらの善い事柄の功績の原因であり、悔い改め、信仰そして神の律法に対する服従の誠実な、(ローマ、3.24,25,26. & 8.3.)そしてそう父なる神は、それは彼は彼の選びの救いのおおよその永遠性を持って来られた、選ばれた人キリストは、人間の自然性に尊敬と一緒に、人の塊から落ちだし、(ヘブル、7.14. & 10.5,-8.)時の満ちるに及んで、彼は女を造り、律法の下に置き、そのそれらに埋め合わせ;(ガラテ、4.3.)それはわたしたちの御子の採択を受け入れ、(エフェ1.5.)そしてキリストもアダムから来てだけれども、エヴァもそう、(創世記、2.21-23.)まだアダムもそうカインによって行わなかった、(創世記、4.1. & 5.3.)すなわち、自然によって普及させ。そこから罪の汚れの少しのを除いて、(マタイ、1.18,19.ルカ、1.35.)そしてこの第二のアダム、永遠の神の命令によって、最初の契約の中から出ての除いた、まったくそれは父なる神のでもなく、それは正しく怒らせる;アダムの罪がまだ満ちていない時、それはそれの壊しの中の彼の怒りを得て、---そこからキリスト、第二のアダムは神と人の間の調停者、彼自身の中で両方を和解させる、(ティモ第二、2.5.ヘブル、9.15.エフェ、2.13,-16.)彼の流血し、まき散らすことによって、キリストの選びと神の永遠なる目的により、そしてそれを全て行うことによりかまたは彼に信仰を働かせることにより、それは永遠の選びかまたは父と子の両方の契約の措置が、(イザヤ、49.6,-9.)とても矛盾のない福音書の中に現された意志が、(テサロ第二、2.13.)わたしたちがわたしたちを選びの神の恩寵に反対すべきでない、またまだ御子のすべての人間への死にかけている中で恩寵を(そしてわたしたちの為にも);またなおまだ福音書の中で提出された聖霊の恩寵が、そしてわたしたちにそれを信じさせようとして説得する;(エフェ、1.1,18,19.コリン第一、2.13,-16.)わたしたちが信じることをする、神の不興(ふきょう)の結果がわたしたちを取らない;神の怒りがすべて彼らが留まるそれはキリストの信仰をしない;(ヨハネ、3.18,36.)良心の法廷の中に行動の宣言のために、器械の信仰によって、(ローマ、3.30.ガラテ、3.8,11.フィリ3.9.ローマ、5.1,2.)(信仰で無いのは功績ゆえに):キリストはすべての信じる事のために永遠の生命の功績の理由を、しかし彼らの永遠の生命を与えるために神の意志でない、またまだを救う神の命令なしに、(ヨハネ第一、4.9,10,19.)わたしたちが世界の基が置かれる前にキリストに於いて選び。今わたしたちの救いの道のために信仰が必要で、器械の故に:(ヘブル、11.16.ヨハネ、1.11,12.使徒、13.39.)しかしキリスト従がいの受け身の活動的な、わたしたちの救いのために功績の理由はすべて必要である;(使徒、20.28.エフェ、1.14.ローマ、5.9,10,18,19.)そこから神の永遠の命令は福音書の中で彼の意志を現わし、(ヨハネ、6.40.ティモ第一、2.3,4.ヨブ記、42.2.イザヤ、33.22.)示さないのは行うこと、しかし人の行うことの義務は、そして行わない残しは:それは神が(わたしたちは信ずる)命令した、その信仰はすべてを意味する、そして救いはすべて終わり、ともに喜び、それは一つであり、他のものもまたそうである:(ヨハネ、3.36.)それは書かれ、「彼はそれを信じ、救われた」。(マルコ、16.16.)またそう、「主イエス・キリストを信じ、そして汝は救われる」(使徒、16.31.)今ここから偉大な神秘が確かに、神の絶対の支配の命令、それは彼がわたしたちにたくさんの場所を有効な条件付きの分配品を残した、(イザヤ、14.24.詩篇、115.3.同、132.11,12. & 89:30,-34.)それはもしそれ自身命令なら条件付きの。

第X.(10)条 遺棄或いは永罰について[編集]

わたしたちは信じる、彼の業を永遠から来る神はすべて知って居られる、(使徒、15.18.)そこからアダムの転落を予見し、天意の裁きがそれは無いが、まだなお予見されていた彼の永遠な計画或いは知恵で、及びイエス・キリストに於いて選ばれた、そしてすべてのそう行う又は信じる彼の信者、人類のたくさんの転落した塊(かたま)りより出て、そして彼の愛と彼のイエス・キリストによって恩寵の公約を持つ人たちは、(彼の選び、かまたは御子に愛された)福音の意味を通して、すべてに;そして御言葉と誓いにわたしたちに与えられたものである、わたしたちが確信するのは神は悪しき者の死を望まれず、しかしむしろ彼らの後悔のからより、彼の復帰または生きる事が出来るようにすること;(エゼキ、18.22,32.& 33.)そしてすべての邪悪の誰かが死ぬ時があり、それは彼ら自身の破壊であるが。(ホセア、13.9.ヤコブ、1.13,14.)かまたは神を敬わない人が不服従な、そして不信仰なあるいは罪人の強情な人を罰することを定められた、(テサロ第二、1.9,10.& 2.10.)神はその人の生きているとき、恩寵をひどく嫌って、愛にも、そして悲嘆にも、かまたは努力することを、聖霊に於いて、(ヘブル、10.26,-30.)長い苦しみを耐える事を嫌うことを常に持っている個人は生きてはいるが死にかけている、その人は永遠の地獄の火と共に破滅の罰せられた者である、(イザヤ、30.33.& 66.24.マルコ、9.45,46.ユダ、4.)転落した天使や、悪魔と一緒の、そして固定されて取り消すことの出来ない状態の地獄の、神の怒りの下にある、彼らはそれに罰せられる;そして怒りと正義の、苦痛の信じられない中の、言語を絶した全ての中に、魂と体、すべてが永遠に留まる。(マタイ、25,41,46.黙示、20.13,14.)

第XI.条 創造について[編集]

父なる神は最初に喜びとなる、御子を、また聖霊を、彼の永遠なる、また不変なる布告で、彼の永遠なる栄光の示威活動で力がある、知恵と、そして善き事、(創世記、1.1.ローマ、11.36.黙示、4.11.)何も無い所から、創造された(ヘブル、11.3.)世界で、そしてすべての事柄がその中にあり、見えるか見えないか、(コロサ、1.16.)そして人を創造されて男或いは女に、(創世、5.1,2.)肉の体と一緒に、そして筋の通った(そして見えない、か霊的の、天使的の、そして不滅で)魂が、(創世、2.7.マタイ、10.28.同、22.31,32.黙示、6.9.ルカ、23.46.使徒、7.59.)神の像にその後造られ、(創世、1.27.&9.6.エフェ、4.24.)義人の知識は、そして彼の心に書かれた律法の持つ、真の聖なる、(ローマ、2.14,15.)そして力かそれの満たす御意志の自由で;(伝道の、7.29.)まだなお変わり易い、かまたは違反のあり得る条件下の(創世、3.6.)また善きか悪しきの知識の木の実を食べてはならないと命令を受け入れ;(創世、2.16,17.)そして彼らは命令を保った間中ずっと、神と共の幸福な親交を楽しみ、そして創造物のすべての支配権を持ち:そしてすべてこの創造の不思議な働きの、天と地球の両方の、第六日の内にそれを終らせ、(創世、1.1,2.)そして全てとても善かった。(創世、1.31.)そして理由だけれどもそれを全く新しいものではなく十分に理解したものでも無く、まだなお神の御言葉はそれをはっきり表わす、そして信仰はそれを信ずる。

第XII.条 神的摂理について[編集]

かの全能なる神は、すべてを創造し、そして彼らに彼らの存在を与えた、彼の無限なる力と知恵によって、ささえる動きと、上に掴み動き、(ヘブル、1.3.)直接に、配置し、そして支配する、(ヨブ記、38.11.同、26.17.から章の終わりまで。詩篇、135.5,6.)全ての創造物はまた事がらは、大きいものから最小のものまで、(マタイ、10.29,-31.)彼の自ら善しとする御意志や喜びとすることは協議により、彼自らの栄光により、そして彼の被造物が善い事による。(詩篇、65.8.から章の終わりまで。エフェ、1.11.)

第XIII.条 最初のエデンの契約について[編集]

最初の契約は、神と人の両方で作られた、人の前には罪になる食べてはならない禁じられた実があった;その契約の中で神は人に要求して完全な服従を全ての戒めをそれから要求された;(ホセア、6.7. & 8.1.)そしてその場合彼はそのように服従し、彼は彼の神の約束を守った。(申命記、26.17,-19.)そして他の部分で、人はその契約の聖なる戒めを神に全く服従することを全く実行した、彼の最初の創造で彼に賦与されたそれらの一緒の神は強さによって与えられ:それによって改善され、彼は信仰無しに永遠の命を遂げようとしていた、血の中に新しい契約の恩寵の調停があった;しかし彼はこの契約に罪を犯した、(それは二つの根から成る、(すなわち)愛の神は総ての事がらの上に;そして彼の彼自身の隣人)、(マタイ、22.37,40.ローマ、2.14,15.)それは二つの石の平板に書かれたその後の律法で、モーセにシナイ山で伝えられたもので)そして正に永遠の死に宣告されたそこから転落することによって、(創世記、3.12,13.)それはそれを破ることは神が指定され、神の罰を受けるようになった、そしてこの神の正しい裁きは、アダムそして彼の自然の後世の人々は、永遠に留まった、転落した天使たちもそう、神は彼の無限の恩寵と愛が、彼の息子に供給して、彼自身の上にわたしたちの自然のものを取る、そしてそう適した調停者が父なる神と怒らせる人の彼は神を怒らせるようになって来た(ローマ、5.12,18.エフェ、2.13,14.)彼の律法と契約を壊した。

第XIV.(14)条 人の罪による転落とそれからの刑罰について[編集]

その最初の人アダムは、自発的に禁じられた実を食べ、神ご自身の呪いに陥り、(ローマ、5.12.14.)そしてすべて彼の後世の人々に(彼に来る事によって自然の繁殖をし)すなわち、肉体の受ける霊的死で、体と魂は永遠に;(創世、3.10,12.エフェ、2.1,3.)しかしこの契約は彼と一緒に造られたのではなく、彼の胤もそう、それは自然の世代により彼の増殖によって彼の腰から出たものによってもなされたのであり;(ローマ、5.15,-17.ヘブル、7.9,10.)彼は全人類の代わりに公的人格として立っていたのである、そして聖パウロが言っているように、彼の罪を通して、罪によって死に、エトセトラ、(ローマ、5.14.)そしてすべて後代の人々に不幸にも、その元の正義を、神の、(詩篇、51.5.創世、6.5.ローマ、7.7.ヤコブ、1.14.)彼の内に創造した。

第XV.(15)条 原罪(生まれながらの罪)について[編集]

自然な人は原罪で、傷付けることと堕落の(ローマ、7.21.創世記、6.5.ティト、1.15.ローマ、3.23.創世記、5.3.ヱレミ、17.9.)自然の世代はアダムの自然に下降によって;その意味は、人はみずから義とされることを失った、それは神は彼をその中に造ったが、自然と邪悪の手法の中で傾いたのである、罪を思いついたのである、そして不正を前に持って来たのである;(詩篇、51.4,5.)そして(聖パウロが言った)肉が霊に対して肉欲を持ったのである。(ガラテ、5.16,17.)そしてそれから一人一人の人が神の怒りと呪いに正しく値する(コリン第一、15.22.ローマ、6.23.創世記、2.17.ヨハネ、5.24.イザヤ、64.6.ガラテ、3.10.)そしてこの強欲によって、かまたは肉欲は内在する、再建するものでさえ依然として。それは彼らが愛する事が出来ないからである;また生命においてこの従がうことを完全に出来ない、最初の契約においても最低によって仕舞った。(ローマ、7.17,21,22.& 2.14,15.ガラテ、3.21,22.マタイ、12.33.)

第XVI.条 新約(新しい契約)の恩寵について[編集]

最初の契約は人の不従順によって破れたものに成った、そして彼の罪、彼は神の好意から除外された、そして永遠の命からも;そこは嘆かわしい状況に彼はおかれ、神は自由な恩寵を彼の喜ぶ所に従って与えられた、人を愛す境界線に置かれた、(申命、27.26.コロサ、1.13.コリン第二、4.4.ヨハネ、3.16.)(彼の順序では彼のこの罪に満ちた所からの回復は、嘆かわしい状態で)彼に二番目の申し出が自由にあって、かまたは新約の恩寵が、(ヱレミ、31.31,32.ローマ、3.23,24.ガラテ、3.21,22.ローマ、3.31.ヘブル、8.7.創世、3.15.)(その恩寵の新約はイエス・キリストである)罪の寛解から、彼の流血を信仰を通して、(ルカ、24.47.エフェ、1.7.詩篇、20.3.使徒、10.43.)そこで神はそれに付け加えて永遠の救いを備えられ、すべての人の上に自由な満ち足りた申し出を行って、その上に福音の期間で、すなわち悔い改め、そして信仰:そしてこの契約の恩恵を、神によって自自由な恩寵で、イエス・キリストの償罪を通して、彼に神は彼の流血を通して沈めることを前に置いて、(ヱレミ、32.40.イザヤ、42.46.ローマ、3.24,-26.使徒、19.43.イザヤ、53.11.ローマ、5.9. & 3.20.)彼の正義の宣言は神の寛容を通して過ぎ罪の寛解のため、それは彼の正しい所の、そしてイエスによる信仰の彼の最もな、そこからわたしたちは結論する、それは人が信仰により正しく、律法の正式なしに:(ガラテ、3.8. & 2.16.)信仰によりわたしたちが律法によって正義を受け入れるとすれば、かまたは最初の契約において、最初のアダムに求めた;それはキリストの正義が満ちた(わたしたちの自然に処女マリヤの彼は取った)彼の行動の従順によって、(ローマ、5.10,19. & 10.4.詩篇、40.7,8.マタイ、3.2.)そして神の自由な寄付によって、わたしたちの転嫁によって上に造り、(コリン第二、5.最終迄)彼の彼に造るわたしたちの智慧の、正義と、キリストの為に律法の処罰のただ満ちないことで、(すなわち)全ての彼の心と一緒の神の愛と、そして彼自身の同胞の、しかし全く自発的に律法の呪いの苦しみを忍び、わたしたちのために呪いを作り;(ガラテ、3.13.ペテロ第一、2.24.イザヤ、53.6,-8.フィリ2.7,8.)それはわたしたちがアブラハムの祝福を受け入れ、そして聖霊の約束の信仰を通して、彼の流血の中に。(ガラテ、3.13,14.)そして今、キリストの正義の不可欠なそれにも拘らず、彼は父なる神と当位格の、わたしたちの上に責めを帰さず、彼の個性的な正義をもまたそうではなく、かまたは人の(ただ)、わたしたちが神と人の正義の調停者をまだなお信ずる;(ヘブル、7.26.マタイ、3.15.ローマ、5.18.)算段し責めを負わす、かまたはわたしたちに造る、(ガラテ、4.6,7.ローマ、4.3. 4.23.)この新契約の恩寵を期間の上の;(ローマ、3.25,28.)そして彼の恩寵によって義化する、わたしたちはそれから永遠の生命の希望によって相続することを作る:(ティト、3.7. & 1.2.)(聖パウロが言う)もし律法によって正義が来るのであれば、キリストは無駄に亡くなったことになる、ガラテ、2.最終迄。

第XVII.条 キリストと彼の仲裁の職務について[編集]

第XVIII.条 キリストの全人類に対する死について[編集]

父なる神は、彼の忠実な恩寵から出て、そして愛の泉であり、それと共に全人類の為に罪によって御子を遣わされ堕落した人間のために死に給うた方である、最初の契約が破れて、働きが彼らにアダムにより、造られたのである。それはそしてイエス・キリストにより、選ばれ、そして世界に送られ、アダムのために死に、それか人間のために落ちられ、そして神の愛を公約に全人類のために、それは彼の意志では無かったが、彼自身すべて誓約しそして豊富に彼の世界に宣言し、それは人類のために永遠に死を味わった、(ローマ、5.8.マタイ、20.28.ローマ、8.3.ヘブル、9.5.エゼキ、18.23. ヘブル、2.9.ヨハネ第一、2.2.ティモ第一、2.3,-6.)しかし全て救われたものが持つであろう、そして真理の知識に来るであろう:そしてキリストはすべての人のために死に、そしてそれは十分な世界全体のために功績の彼に死を味わわれ、(ヘブル、10.12,-15.)そしてすべての上に福音の説教を指定し;(マルコ、16.16.ティト、2.11,12.)そして前へ送り彼の霊を世界のために一緒に行き、秩序の中に信仰と悔い改めをもうけさせ:(テサロ第一、1.5,-7.)そうそれはもしだれかが滅びる(死ぬ)のであれば、それは彼らのためにキリストによって恩寵の手段の不足によるのではなくして、しかし、神の福音の中にキリストを通して示された無償の恩寵を彼らが利用しないためである。(ヨハネ、5.39,40.マタイ、23.37,38. & 24.12.使徒、13.46,48.)

第XIX.(19)条 旧約と新約の間の同意一致について[編集]

福音あるいは新しい契約、前に持った、あるいは父たちに説教した、キリストが受肉してこられてアダムから、(ガラテ、3.8.創世記、12.3. ヘブル、4.2,3.)それは雑多な程度の啓示した、そして異なった手法で、(ヘブル、1.1,2.)型の影は形で;(ヘブル、10.1.)それは福音が同じだった、その同じキリスト、その同じ信仰(種類のために)、そしてとても同じ契約、それは彼らが義化された救いをもって、また処女の肉を取ってキリストが前によって、そして世界の終わりまで続くもの、(ヘブル、9.10. & 11.章で.)それはユダヤ人の教会の彼らが福音書の型に従って、そして司祭、祭壇、そして子羊、そして火、それらはすべてがなければ、犠牲も捧げることも出来ず、かまたは神の受け入れることも無かった、その時かまたは今でない、信仰と対型キリストのを除いた、その人は人類の自然の子羊であるキリストは、自然のと結合し、高い祭司、神的自然、祭壇、そして聖霊、そして火である。(ヘブル9.14.)そしてもう一度、真鍮製の祭壇に流血を置く時は、わたしたちの義に当て嵌(は)まり、そしてそれを上にまき散らす芳香の祭壇で、それはキリストによって霊の聖別の働きに当て嵌(は)まり、(エフェ、5.2.)わたしたちの上に彼の流血をまき散らし、(ペテロ第一、1.2.)そしてその流血は利益の中にし、至聖所に入り、わたしたちの天に於ける栄化に当て嵌まる。(ヘブル、9.7,-9,12,24.)そして彼らは全く彼らの教会の契約の箱を持ち、キリストの臨在に形を取る;そうわたしたちは彼の臨在の約束を世界の終わりまで持ち、(ローマ、3.31 & 8.3,4. & 10.4.)そしてキリストに於ける神の出会いは、それは今わたしたちの為にキリストによって前にそれの手をした、(ヨハネ第一、2.6,-8.)全くわたしたちの聖別の原則のだけを、従順に、聖寵を通して。そして彼らはカナンに至る荒野の中で彼らの栄養分のあるマナを与えられたのであれば;そうわたしたちも礼典秘跡記録の教会の中で栄養を与えられ、そしてわたしたちが荒野の状態の中でも、わたしたちが天に来る時まで。そして彼らが全く杖で彼らを怒らせたときのように、教会譴責が今わたしたちが正していることをもって、(コリン第一、4.19,-21.)そして彼らが全焼燔の捧げ物のキリストに至る当て嵌めの、わたしたちの中の原罪を滅ぼす、そして彼らの罪を除去し滅ぼし;そして彼らの供与の捧げ物(酬恩祭)の彼の霊によるキリストの中の神と一緒にわたしたちの和解に当て嵌める;そしてすべての安心信頼のそれらの福音書の対型のを当てはめる。そしてこういう旧新約聖書は、ケルビムの顔のような、一つを見るとほかのに対する向かい合うような、彼らにとってもわたしたちにとっても、全く同じ福音と救いの同じ提示を保っているのである。

第XX.(20)条 人の自由意志について[編集]

神は人の意志を授けそれには自由と力を付属され、選択の上に行動する、意志を与えられた、それには強制と、自然の悪しきことを必要性によって決定されることが無い。(マタイ、17.12.)しかし人は無垢の状態では、そのような力と自由意志を持ち、選びと実行する受け入れと神に喜ばれる意志を実行する事が出来る。最初の契約において必要とするものに従がって;(伝道の、7.29.)しかし彼は無罪の状態から堕落した、すべて全く能力も、また自由なる意志も、また少しの霊的善きことも彼の永遠なる救いに於いて。(ローマ、5.6. & 8.7,8.)彼の意志は今はもう罪とサタンの支配下に束縛された;(ヨハネ、8.44.)そして彼自身契約の強い自ら彼の可能性もできずに、それから彼自身準備もできずに、彼の意志で敵対者を取り去ることも、神の恩寵によって、罪の下に彼の自然の奴隷身分から彼に自由に、心からまたは自由意志に於いて彼に意志する事が出来るようにする、それは霊的善きことだった、(エフェ、2.8,-10.)キリストの中の保有権になる恩寵の新しい契約による事だった、にもかかわらず最初の契約の保有権は不完全によるものに成った;(ローマ、7.14,-6.)その完全な旧新約聖書の契約は、栄光の状態を達成する一つだけのものだった、贖罪の後、またはわたしたちの肉の体の為の復活の後、達成されるものであった、ローマ、8.23.エフェ4.13.

第XXI.条 召命(Vocation)と効果的な召し(Calling)について[編集]

一般にか共通の、召命あるいは召しは、その時神の彼の言葉と霊の意味を持って、自由に彼自身の恩寵と善き事の、代理の知らせる人類に彼の善なる善き救いの目的と一緒に、イエス・キリストによって;招きと神が彼らに来る時に説得して、(マタイ、11.28.)そして真心をもって、キリストの現わす受け入れに;(使徒、5.31.同、11.18.)そして彼の恩寵に拠り彼らは来てキリストを、全く彼らのただ一人の主また救い主、彼らの父となり、そして彼らは確実に召される、(ローマ、8.28,30. 同、11.5,7. エフェ、1.11,17,-19)救いに於いてキリストの恩寵によって信仰の結合によって。(ローマ、5.1.エフェ、2.8.ローマ、4.16.)

第XXII.条 福音的な悔い改めについて[編集]

偽りのない悔い改めをする者は、罪のために心から本当に悲しむことをして、(ティト、2.3,-5.使徒、2.37.38.コリン第二、7.10,11.使徒、17.30.)真実に神に告白をして、特にわたしたちが恩寵の愛する父の神に対して傷つけ;(詩篇、51.4.ルカ、15.17,-19.)心の目的に於いて固着した、すべてのわたしたちの罪から離れることに努め生活に於いて聖なる聖別した生き方をもっと、すべての神の御命令によってなし。(エゼキ、18.30.エフェ、2.10.)かまたは全くの人が神に曲がり角か転換の、彼の恩寵を通して務め、内在的に肉欲や堕落を抑制し、(ローマ、8.13.エフェ、4.20-32.)偉大な改革が起きている両方の人の外側と内側、神の御意志により;この悔い改めと、それの自然性、わたしたちの生活の信仰に於いて全くすっかり続けなければならず、(ヨハネ、8.31,32,35.)そして神の聖霊によって入念に造られた、福音や律法の役割によって、(ローマ、8.13.)キリストの従順に順序だてられ、彼の名においてバプティスマを受け、(使徒、3.19,26. & 2.38)しかしこの悔い改めは魂の中に於ける悔い改め無しには造られない;(ヘブル、11.6.)信仰によってわたしたちは恩寵による完全を受け入れ、かまたは最初の或いは最後に至るまで魂の悔い改めの業を続けて行くのは恩寵による事だからである。(ガラテ、3.26,-29.)

第XXIII.条 義化認と救いに至る信仰について[編集]

信仰とは理解していることの行動である、(ローマ、10.14,17.マタイ、13.20,21.使徒、24.14.)堅い承諾の事がらは、聖書の中に含まれている、(詩篇、19.7-10. & 119.72.)しかし義化の信仰は恩寵による、かまたは習慣は、聖霊による魂の働きである、(ペテロ第二、1.5,11.ヨハネ第一、5.4. & 5.2.)(コリン第二、4.13.エフェ、2.8.)神のことばの説教を通して、そこからわたしたちは信じる事が容易になる、(使徒、31.31.同、15.11.)メシアの申し出がわたしたちに唯一のものでは無いけれども、しかしまた全く取り、そして主また救い主として彼を受け入れる、(ペテロ第二、1.5,11.使徒、8.37.)全くそしてただ一つキリストの恩寵に信頼するのは永遠の救いでもあるからである。

第XXIV.(24)条 キリストによる義化認について[編集]

義化認は宣言されたもので、父なる神の宣告判決である、(使徒、13.38,39.ローマ、8.34,35. & 3.23,-25.)そこから彼の無限の愛、そして最も自由な恩寵によって、彼の自らの御子の正しい仲介のために、わたしたちの自然と助けの行動において;それは正しい人と神の間の父がわたしたちに責めを負わす、そしてわたしたちによって抱きしめる父が効果的に受け入れることによって、(テサロ第二、1.3,4.使徒、15.9.ガラテ、5.6.)使徒罪からの宣告判決にわたしたちに自由にすることによって、そしてわたしたちにキリストにおける正義を受け入れるわたしたちの保証人として、永遠の生命に於いて;(ローマ、8.1.ローマ、4.6,-8.ガラテ、3.13,14.ヨハネ、5.24.ローマ、3.22,30.)公同的にまた受動的にキリストに対する服従は全ての正しきことの達成と律法による忍びと、かまたは神の正義は不可欠の;(ローマ、8.1.同、4.6,-8.ガラテ、3.13,14.ヨハネ、5.24.ローマ、3.22,30.)そしてこのわたしたちの調停者の行動の完全さで、わたしたち人の非常な自然の中の、(ヘブル、2.9,10,16,17.)わたしたちの利益の中の父によって得られた、(コリン第二、5.21.)永遠の契約の処理によって、父と子の間の(イザヤ、53.10,-12.)そしてすべて私たちの罪の罰と有罪からの救出はわたしたちはここから持つ、そして神からの正義の受け取りの、恩寵の王座の、キリストの調停者のただ一人の正義によって、責める、かまたはわたしたちに信仰を通して算段して;わたしたちが信じるためにそこに人の義化する場合を六つの必要とし、かまたは救いに於いて。(すなわち)最初にわたしたちの義化に場合の有能な、神の自由な恩寵の(ローマ、3.24.)第二に、キリストの流血の場合は報酬に値する。(ローマ、5.9.)第三に、わたしたちの服従は、キリストの行動の服従である。(ローマ、5.19.)第四に、キリストに負わす責めは、わたしたちのための従順であり形式的な場合である。(ローマ、4.6.)第五に、信仰の場合は役に立つ。(ローマ、5.1.)第六に、栄光の神は、そして人の救いは、それは最終の場合。(エフェ、1.11,12.)今私たちは主として最初と最後の父なる神の適用である、その二番目と三番目はキリストの調停者の、第四と第五は慰めの祝福である、聖霊に拠る;そこからわたしたちは父の名と子の名と聖霊の名においてバプタイズドされた、(マタイ、28.19.コリン第二、13.14.)そしてわたしたちは三位一体を一つとして、そして一つを三位一体として、ヨハネ第一、5.7.

第XXV.(25)条 キリストによる調停と御子性について[編集]

二つの特典のあるわたしたちのキリストの中の信仰による義認が注がれ、(すなわち)わたしたちの調停者である恩寵ある特典、そこからわたしたちはそれらの敵対者たちによって、友人を作り;かわたしたちはそのような敵対者や、反対者や異なる外国人や、好みの内に受け入れる、やキリスト・イエスの信仰を通して、神に近く持って来た、(ローマ、5.8,-10.エフェ、2.12,から18.)そして神の子のある特典と力を採用し、わたしたちの保証としてキリストの信仰を通して、(エフェ、1.5.ガラテ、4.4,-6.ローマ、8.16,17.)彼は永遠の神の子であったけれども、わたしたちの兄弟の形を取り、(ヘブル、2.11,-13,17.)それは彼の神によってたくさんの子らを栄光に持って行き;(ヘブル、2.10.)キリストの自然体を保持するのに永遠の法令によって、それは決してアダムの転落から落ちない、(ヘブル、4.15.マタイ、1.18.ヘブル、7.26.)そしてそうわたしたちは、自由な恩寵である神の信仰によって、そしてキリストを努力して得、または償いを、そして聖霊をわたしたちに適用し、相続人に造り、そしてわたしたちの長老の兄弟たちをキリストと共に接ぎ木し、(ローマ、8.16,17.)同じ王国で、途方もない発言することの出来ない栄光をもって、永遠から永遠へ。

第XXVI.条 神聖化にする事と善き働き[編集]

それらは有効な信仰によってキリストに対する結束された者たちは、再生した事と、彼らの中に造られた新しい心と霊を持つ、(エゼキ、36.26.エフェ、4.24.コリン第二、5.17.ヨハネ第一、3.9.)それはキリストの彼の死を通した美徳であり、復活と仲裁があり、(ティト、3.5.コリン第一、4.15.)そして聖霊の働きによって、信仰によって受けた;そして彼らの中に住んでいる真理の霊と神聖にする言葉によって、破壊によって、かまたは肉欲と罪の統治を、強くつかみ抜き倒し、(コリン第二、10.4,5. & 5.17.)そしていよいよ手早くそしてすべての恩寵の中と聖なる実践の中に強くなってゆくものである;(ヨハネ、17.17.同、16.14,15.)それ(:神聖さ)なくしては人は主を見ることが無いであろう、(ヘブル、12.14.)そしてこの聖化はこの生命の中に不完全ながらも人の全体を通って、それらは最善の聖徒の中にまだ留まり、幾らかの堕落の残りがあり、(ローマ、7.20.ガラテ、5.16,17.)魂の中に起こる絶えず繰り返す戦闘である;肉は欲望を霊に反対して、そして霊は肉に反対して、まだなおキリストからの強い供給がたえず繰り返し通し、それは恩寵の契約の意味によって信者に彼から注がれる、(ヨハネ第一、3.8. & 2.20.)かまたはわたしたちの自然と一緒に実在の結合である、再生の部分は天的生命を追い求め、征服する、キリストの命令はすべて福音の服従の中に、彼らの王また法令授与者は彼の世界の中に彼らを命令している、かまたは聖書において、(ローマ、6.14.エフェ、4.15.コリン第二、3.18. & 7.1.詩篇、112.1. & 119.48.ヨハネ、15,4,6.)それはただ一つの原則であり、そしてわたしたちの神聖化の正当形とすべての善い働きの従順と、そして敬虔な。そして善き働きへただ一つの助力し(そのような神の命令で)は神からの、それはわたしたちの両方の働き意志し行動を起こさせるのであり、(イザヤ、43.13. & 26.12.フィリ2.13.コリン第二、3.5.)わたしたちは誇る事無からしめん為に、引いて粉にして終わりもしない、わたしたちは少しの功績もない、わたしたちはすべての自由を受けそして恩寵の奉仕を受けるに値しない、そしてわたしたちは最高の事を行い得た時でも、まだなおわたしたちは無益な僕であって、そして確かに全く欠点だらけなのである;そしてわたしたちが今実行する事が出来る最高の義務でも、神の審判に意志して耐えることは出来ない;(ヨブ記、9.2,3,20. & 25.4.ガラテ、2.16.ヤコブ、2.9,10. & 3.2.)少しも善き働きをせず再生しない者、またそれをすることは何でも、人々に産まないことによってする、そしてキリストへの愛と、かまたは信仰無しに、神を喜ばすことも、かまたは彼に受け入れられることなしに。(ヘブル、11.6.イザヤ、64.6.箴言、8.17.コリン第一、16.22.)しかしながら信仰の中に行なうことのある、そして愛、そして聖霊によって造った、偉大な善き働きは非常に有益である、(ヤコブ、1.18,19,22.ガラテ、5.22,23.ヨハネ、4.14 & 5.25.)そしてわたしたちによってなされるべきであり、わたしたちの神への感謝を現わし、キリストのよって新しい契約の恩寵によって、そして栄光のためにもっともっとわたしたちに適したものにする:(ガラテ、5.6.コリン第一、6.9,-11,19,20.ヘブル、12.28,29.コリン第一、13,2,3.詩篇、50.14.)そしてこのことから、十の誡めは、調停者なるキリストによって前に手で渡された、信徒にとって生命の支配であり、神と人のわたしたちの義務をわたしたちに示すのであり、神の恩寵も、そして功績のキリストのもまた必要である。

第XXVII.条 バプテスマと主の晩餐について[編集]

それらの二つの礼典秘跡記録、(すなわち)バプテスマと主の晩餐について、確実な儀式であり、主権者のそして神聖なる制度である、主なるイエス・キリストによって指定された、彼はただ一人の法令授与者である、彼の教会が世界の終わりまで続ける;(マタイ、28.19,20.コリン第一、11.26.)そしてそれらは正しい資格を与えることによる支配である、そしてそれらはキリストの任命に於いて、彼らにより執行しなければならない、(コリン第一、4.1.)~の中でマタイ、38.19.

第XXVIII.条 聖なるバプティズム(バプテスマ)の正しい従属者と執行について[編集]

バプティスマは新約聖書の条例である、イエス・キリストによって運命づけるバプタイズドの一団に、かまたは浸礼の、恩寵の契約の入り口のしるしである、そしてキリストに接ぎ木される、そしてキリストの体(の一部)に成る、そこは彼の教会の:(ローマ、6.3,-5.コリン第一、12.13.ガラテ、3.27.マルコ、16.16.)そしてキリストの流血による罪の寛解である、(マタイ、3.11.使徒、2.38.)そしてわたしたちのキリストと一緒の追随である、彼の死と復活の、そしてわたしたちの生活と、かまたは新しい生命に起きるためである。(ローマ、6.1,-8.)そして規律正しいキリストの教会の見える認められるべきものである、

第XXIX.(29)条 キリストの見えない公同(原英文:カトリック)の教会について[編集]

そこにはただ一つの神聖なる公同(カトリック:普遍の:ヨーロッパ語の意味、ラテン語もギリシャ語も)の教会がある、全体の仲間の選ばれた者たちから成る;から集めてなった、一つのキリストに於ける体から成る、(ヘブル、12.22,23.黙示、14.1,-5.)キリストはかしらである:(コロサ、1.18.エフェ、1.10,22. & 5.23,26,27.ヨハネ、10.16.)その教会は特別の恩寵によって集め、そして力あるその霊の内的働きによる;彼らの頭であるキリストに於いて効果的に結合したものである、そして離れ落ちることが無い。(ガラテ、3.28. 詩篇、72.17. & 2.41,-47.エフェ、2.19,-21.コリン第一、11.23,-29.ガラテ、3.1.)

第XXX.(30)条 見える公同(カトリック)の教会について[編集]

それは無くてはならない、わたしたちは見える地上におけるキリストの教会を信ずる、それはいくつかの明白な会衆より作られる、それは一つの公同(カトリック:普遍的な:ヨーロッパ語)の教会から作られる、それは一つのキリストの体なる神秘体から成る、そしてキリストの真の配偶者なる彼女によって印づけられる、それらは、すなわち。それは神の言葉を正しく説教することによる、そして礼典秘跡記録はキリストの制度によって真の支配をなし、そして初期教会の慣行をする;(ガラテ、3.26,-28.使徒、2.41-47.エフェ、2.19,-21.コリン第一、11.23,-29.ガラテ、3.1.)訓育するのに神の指定する奉仕者や牧者から正当に統治を実行され、そして選ばれた者たちの教会は、そして真の教会が組織され:それの教会の(そしてそれ以外は無い)全ての永遠の生命を求める個人たちから成り、彼ら自身に繋がれることを喜ぶ、(エフェ、3.21.使徒、18.8.コリン第一、12.13.ヨハネ第一、2.19.)それはしかし彼らは見える教会でそのようなたくさんの間違いをし、かまたは会衆で、彼らは無謬ではないが、まだなおそれらの間違いは根本的なもので無く、そして教会は大方、部分によって統治され、咎のことが無いならば、彼女はそれによって非教会的のとは言えないのである;それは決してそれなしには彼女はそれらの誤謬を見つけ出すのにすべきである、(黙示、2.2,14,-16,20,-23.ティト、3.10,11.)そして改革は神聖な神の御言葉によって、そして見える教会から、または会衆から、また人はその所にシスマ(分裂)的な分離の口実によることが無いようにすべきである。(ユダ、17,-19.ヤコブ、3.13,-16.ティモ第一、4.1. & ティモ第二、1.13,-16.使徒、2.29,-31.コリン第一12.25.)

第XXXI.条 キリストの教会の家令について[編集]

キリストの目に見える教会は、キリストの御心によって、完全に集められ組織せられ、役人と会員によってから成り;そして役人は(キリストによって指定された)彼の教会によって選ばれた、そのために儀式は独特の管理が為されて、世界の終わりまで彼らは結び合わなかったがキリストの義務と力の遂行があり;そしてそれらは三つの、(すなわち)(エイコーン・バシリケーを見よ、149.頁から、160.頁迄。)司教たち、(使徒、1.20,25,26.同、13.2,3.)かまたは使者、および長老、(使徒、14.23.同、13.2,3.)(かまたは牧者たち)、そして執事たち、(使徒、6.3,-6.)(かまたは貧しき者を監督する):そしてキリストによる指定された道、聖霊によって贈り物されそしてふさわしい個人の呼ばれる、司教の職務の上に、かまたは使者、の教会の中の、(すなわち)それは選んだそれから教会の共通の賛成投票の上によって、(使徒、1.23,-26.使徒、14.23.~~)そして真面目な分かれて設置し断食と祈りによって、手の負荷と一緒に、同じ機能の司教によって、通常;そしてそれらの司教たちにそう僧職者階級に運命に任命する、それらの教会の統治を持ち、彼らの選びの中に賛成投票することを持つ、(ティモ第一、1.3.ティト、1.5.黙示、2.1,2,8,12.)そして他のではない通常の;また全くみ言葉を説教する、かまたは福音の、世界に向けて、(かまたは不信者に)。(マタイ、28.19.マルコ、16.16.使徒、1.22.ティモ第二、4.2.)そして特殊な牧師の、かまたは長老の、会衆の特殊の共通の賛成投票によって選ばれたもののような手法の中の、そして司教に僧職者階級に運命に任命する、かまたは使者に(使徒、14.23.)神は詰める教会の場所を持っておられる;そしてその長老も僧職者階級の運命に任命される、特殊の教会を見るために;そして彼は彼が送った前の他の教会の少しにおいて牧師側の行動のではない、………

第XXXII.条 祈り手に手を置く(を任命すること)[編集]

祈り手は、司教によって按手によって賦課される、かまたは長老、バプタイズド(浸礼を施す)信徒と(全くそんな)、聖なることの受理のために、キリストの霊の約束した、わたしたちは信ずるキリストの教義の原則が、そして一人一人の信徒をバプタイズ(浸礼し)し実行したことと服従したことのすべき、父の霊を約束した受領する秩序の、そして御子のも。(使徒、8.12,-19.同、19.6,7.ティモ第二、1.6,7.ヘブル、6.2.ヨハネ、13.16,-18,26. & 16.7.エフェ、1.13,14.ティモ第二、1.6.使徒、2.38,29.)

第XXXIII.条 最終の正しい主の晩餐の家令実効について[編集]

第XXXIV.(34)条 訓練とキリストの教会政治について[編集]

わたしたちは信ずる偉大な王と、そして法令授与者、キリスト、教会の宇宙的なただ一つの頭(かしら)、見える彼の教会の、下位の力、または権威の源の者である、(コリン第一、11.18,10,21,22,28,29.)秩序の良き存在、そしてそれの支配者、彼自らの栄光、そして教会の利益、そして善き源を与えたもうことを信じる:教会の場所の訓練と政治の力の派生的の部分の執行、彼の尊厳と釣り合って彼の奉仕者たちに委ねられる、(ヘブル、13.7,17.)最も調和した道、美しさに、統治の秩序、そして同じものに確立された、譴責者の使用と実行の構成されたもの、かまたは矯正の正しく杖鞭を振るい、彼はそれらの中に指定する、(テサロ第二、3.6.テサロ第一、5.12,-14.コリン第二、2.5-7.)浄化のために、かまたは同じものを剪定のために;醜聞と躓きを防ぐ秩序に、公的私的の両方で、そして会員に侵害する両方の私的また個人の場合の中に、それは感情を害する仲間に、彼の兄弟に彼の違反を犯すことを語る時、(レヴィ、19.17,18.)彼らとただ一人の両間に;そしてもし彼が彼に聞かないならば、あと[:証明者として]他(ほか)に一人あるいは二人を連れて行くべきである;もし彼がその時彼に聞くことを欲しないならば、教会に於いて話せ、(マタイ、18.15,-17.)そしてキリストの奉仕者は教会の中に於ける彼らの前の罪について、鋭く何でも非難すべきである;(ティモ第一、5.20.ティモ第二、5.12,-14.ティト、1.12,-14.)そして邪悪について彼らの場合の中で、そして罪人の醜聞、かまたは頑固な異端者が居る場合、それらを教会にそのような彼の仲間と雇われ人をも迅速に召喚するべきである、そして彼らの罪と異端の彼らを有罪とするの分裂、と冒瀆の、それはそう;そしてその後そのような規則正しい勧告をし一時停止と、(レヴィ、13.1,-8.民数記、12.14,15.テサロ第二、3.6.)そして期日が来た誡めでも、もしそのような罪人が後悔しないなら;それはその時神の栄誉とその人に、宗教の信用を保ち、そして罪人の魂を救うために制度の中に、そしれ教会の善を保持するためもって、神の律法への従順の中に、罪人を進んで除名し、キリストの名においてまた彼の教会において公正の司法上の判決によって、(コリン第一、5.4,-7.ティト、3.10.黙示、2.14,20,22,23.)真実と一緒に、愛と、そして権威、と全てのこれの罪人のためになして、偽善行為無しに、か偏見無しに;そして祈りつつ、彼のために悔い改めの勧告をなさねばならない、そして彼の魂を主の日に救うこと。そしてこの二番目の程度のもとに、罪人は脱退、除名の、彼は異教徒、かまたは収税吏、の算定をされ(マタイ、18.17.)それは彼は恥じを受けるためである。しかし三番目の上の除名の行動を一番高い、それを神の裁きで雷の叩く最も恐ろしいもので、それは中に進んで今少しの教会のために最も難しい、(コリン第一、16.22.)それは罪を許せない罪を犯したかを知るのは困難であるから、少しの人の見分けるのが難しいことを知っている、そしてそう教会から全く切り落ちるのに陥ることにしてしまうのは到底できないからである。

第XXXV.(35)条 聖徒の交わりと貧しき者への施しについて[編集]

一つの信仰の内にバプテスマを受けた、全てのクリスチャンは、そして真の神に崇拝を捧げる結合された一つの道、にわたしたちの主キリスト・イエスによってある者は、(エフェ、4.5.コロサ、3.15.使徒、2.46.)同じ霊によって保ち、平和によって結合した者たちは、(エフェ、4.3,-6.コリン第一、12.12,13.使徒、4.32.)キリストの神秘体をしかしながら見ている者たちは、そして苦痛を被り他の一人々々と共に追随を共にしている者たちは、かまたは苦悩;一人の仲間が苦しむならば、他のすべてをもそれと一緒に苦しみ、(コリン第一、12.26.)それ故それは彼らがおのおの他のすべてが偉大な贈り物に苦楽を共にし、それをおのおの他がの上に調和ある依存を作り、公けの使用の為に全ての仲間が看て必要とし、そしてその全ての共通の利潤のために、私的とよくもっと公的な両方のと神の家の崇拝の荘厳さと、また互いの善きものと所有の興味ある必要物もそうである、(コリン第二、8.9,11,-15.)必要と一緒に合致する限りそして慈善愛と、王の勅許の特権により、かまたは彼らの王の律法による;かまたは財産分配の平等を嘆願になるが、まだ慈善愛と慈悲の業は、主に貸す義務のうちに在るものとして(詩篇、37.26.箴言、11.25. & 19.17.)憐れみと救済は主の貧しき者にあてられ、(箴言、22.22.申命記、15.10.エフェ、4.28.)わたしたちを繁栄させた神の彼ら(:貧しき者)に出す週の蓄えられたもの、わたしたちの兄弟の必要により、病気であろうと、かまたは獄にいようと、彼らに訪問し救出する、ただ教会の内部だけに留まらず、しかしわたしたちに良いことをする能力と機会があるように、ガラテ、6.10.

第XXXVI.条 保存堅持について[編集]

効果的に召された彼らは、神の永遠の目的により、(ローマ、8.28.)信仰によって義化認されており、聖なる聖油注ぎの容量を受ける、(ガラテ、3.14.ヨハネ、1.12,13.)聖霊から、彼らによって永遠の生命に保存保管堅持されているのである、(ヨハネ、17.12,21. & 10.28,29.ローマ、1.17.ヱレミ、31.31,34.)ローマ、8:30.

第XXXVII.条 聖なる聖書(:Sacred(Sacra-Biblia:ラテン語)-Scripture:英語:聖なる聖正典)について[編集]

聖書の権威は、少しの人たちによる、権威に於いてである、しかし神の権威だけによる、(ペテロ第二、1.19,-21.ティモ第二、3.15,-17.)彼らはわたしたちのためにそこの中に彼の心を現わし救った、そしてすべての事がらと救いに必要なことを含めた;(ヨハネ、ヨハネ、20.30,31. & 21.25.)そうそれはその中を読まなければ、それからの証明は無いであろう、少しの人に必要の事もない、それはクリスチャン信仰にとって信ずべき文章である、また救いに必要不可欠だけれども。(マタイ、22.29.ヨハネ、5.39.46,47. & 10.35. & 17.23.箴言、30.5,6.ヨシュ、1.7.黙示、22.18.申命記、12.32.)またわたしたちが(わたしたちは聖書から今なお救いを受けている)霊感の直接とみなす、聞くことによる夢、あるいは預言者的預言である、それは少しの個人からによって、心によってわたしたちが騙されないように、(すなわち)自然の宗教(それは幾らかの人がそう呼ぶ)、かまたは人に一緒の光、またはそのようなキリストの仲裁を人に十分に知らせるもの、かまたは救いの道の、かまたは永遠の生命を彼によって示すものである;(コリン第一、1.20,-24. & 2.6,-9,13,14.ローマ、15.4,5. & 16.25,26. & 1.16,-18.ガラテ、5.22.ローマ、11.31,32. & 10.13,-21.)しかし聖書は救いに至る道を全ての人に教え必要な事が書かれている、そして永遠の生命の、そしてわたしたちは信ずるかのすべての人々は彼らの母親の言語を用いる、(コリン第一、14.4,9,-11,19.コロサ、3.16.)そして勤勉で、そして一定不変の、彼らの特殊な場所と家族が読み取れる、彼らの教化と、そして慰め、そして彼らの生きざまの背景の努力と、神の言葉へのひたむきさによる、信仰と実行の両方が、聖書から個人的では無い理解がある、しかし信仰の類似によって理解をすべきであり、そして最高のそれの聖書自身で;(ペテロ第二、1.20,21.使徒、15.15,16.)そしてそれのみで論争をすべきである、(マタイ、22.29,30.使徒、17.10,-13 & 18.28.)そして教皇や、他の公会議の布告、や少しの個人の書いたものに類するものは何でも、等しい価値を聖書の権威ほど無い。そしてわたしたちは聖書の理解によって、旧新約聖書の聖典によって、彼らはわたしたちの英語の母語に今翻訳した、それらは決して疑いが無いし、真実性は、権威のあるもので、キリストの新教徒教会が今日まで持って来たものである。

旧約聖書の各巻(この分け方の配列の手順はウルガタ訳が最初、英語にも導入され、普遍的)、

創世記、出エジプト記、レヴィ記、民数記、申命記(:以上、モーセの五書、律法、歴史的意味と神の規準、規範の預言からの対照)、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル前書、サムエル後書、列王紀第一、列王紀第二、歴代志第一、歴代志第二、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記(:以上、歴史書、(以)前の預言者、以前歴史的意味の預言からの対照)、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌(:以上、詩書、諸書、ハギオグラファ、現在的意味の預言からの対照)、イザヤ書、エレミヤ書、エレミヤの哀歌、エゼキエル書、ダニエル書(:以上、(以)後の四大預言者の書、将来的意味の預言からの対照)、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書(:以上、(以)後の十二小預言者の書、将来的意味の預言からの対照)。

新約聖書の各巻(この分け方配列はムラトーリ断片からでも決定的である)、

マタイ伝福音書、マルコ伝福音書、ルカ伝福音書、ヨハネ伝福音書(:以上、四福音書)、使徒行録(:歴史書)、ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、コリント人への第二の手紙、ガラテヤ人への手紙、エフェソ人への手紙、フィリッピ人への手紙、テサロニケ人への第一の手紙、テサロニケ人への第二の手紙、ティモシへの第一の手紙、ティモシへの第二の手紙、ティトへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙(:以上、使徒パウロの手紙)、ヤコブの手紙、ペテロの第一手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの第一の手紙、ヨハネの第二の手紙、ヨハネの第三の手紙、ユダの手紙(:以上、公同書簡)、ヨハネへの黙示録(:終わり日の主の日に於ける預言書)。

第XXXVIII.条 三つの信経(クリーズ:英文:Creeds)について[編集]

それらの三つのクリーズ(Creeds:訳詞:信経等、信条等)、(すなわち)二ケア信経、アタナシウス信経、使徒信経、(それらは共通に呼ばれる)それらは受け入れられるべき通したものである、そして信ずべき、わたしたちはそれらを最も二度とない聖書の権威により立証された、そしてすべてのクリスチャンにより理解をすべきことが必要である;そして教えられた人はそれらを知識として持っている、キリストの奉仕者によって、信仰の類似により、聖なる聖書の中に記録された(それらはクリーズ(Creeds:信経)の土台である)、そしてカテキスム公教要理の原文本で開かれた、そしてすべてのクリスチャン家庭で説明される、老いも若きもそれによって強化された;その意味は異端の教義を防ぎ、そして実行と、それらのクリーズ(Creeds)はすべての事がらを含み手法の信条を含む、それは必要な知られている、根本的なわたしたちの救いを指定する;それは彼らが考えることを終わりに至らせる、そしてすべての人々を理解よくさせる、わたしたちはここに印刷する、下に彼らのタイトルで、その続きを、(すなわち)

(使徒信経)

(二ケア信経)

(アタナシウス信経)

[:以上略]

第XXXIX.(39)条 評議会と大会について[編集]

一般の評議会、かまたは大会は、司教、長老、兄弟たちから成り、(使徒、15.1,-7.)幾つかのキリストの教会で成っている、そして合法的の会合である、そして一緒に出たすべての教会が合うことになる、そして教会の彼らの代表はそこで現れることになる、一つの教会のように;そして合法的な正しいそして投票をして一般的な会合を持つことになる、かまた大会の、行動、(使徒、&15.11,-14,19,22,25,28.)キリストの名により;それは神的権威がある、(マタイ、18.20.)そして最善の意味は保存堅持する一つに天の下で、異端は防がれる、そしてそれらのあいだに監督者を置き、また少しの会衆と一緒に自らの有限ある、裁判司法権を置く、(使徒、15.1,2,30,31.)そしてそのような会合で、または大会で、訴え、少しの不正が行われたとか、異端、分裂、支持など、少しの特殊なキリストの会衆で;そして決定的な声明がそのような一般の大会で大勢の部分をもって出される、そしてそのような一般の大会は合法正当的な力と聞かれる、そして決心させるそして全く破門されることも。(マタイ、18.18,-20.コリン第一、5.4,-6.)

第XL.(40)条 忠実な崇拝(礼拝)と安息日について[編集]

自然の光は神から現わされたもので、彼(神)は支配力ですべてを照らす、(ローマ、1.19,20. & 2.15.)しかし聖書はそれを全的に顕わす;それは全く神は自ら設立し指定されたことにより全ての人々が彼を崇拝されるためである。そしてわたしたちには有限で、彼の自らの現わされた御意志は、それを彼は想像力と人々の図案によって崇拝されるべき者では無い、かまたはサタンの思い付きであっては、または目に見える再現によってそれらがあってはならない、(コリン第一、16.29.詩篇、95.6,-8. & 99.7. & 99.5.申命記、8.6.詩篇、103.7. & 14.6.マルコ、7.7.詩篇、99.8,9. & 106.29,39.ヨハネ、4.24.黙示、9.20.)かまたは少しの他の道の聖書の中では規定していない:そしてすべての宗教的崇拝は、父と子と聖霊を与えて、そして神はただ一人である;(出エジ、34.14.コリン第一、8.4.マタイ、28.19.)天使たちと聖徒たちはなおさら他の創造物は崇拝してはならない、調停者なしに転落して来る者(申命記、5.26,-30.ヨハネ、14.6.)調停者はキリストを於いて他に無い;(ガラテ、3.9.ヘブル、9.15.ティモ第一、2.5.)またこの福音書の下にある神の崇拝は、すこしも場所に縛られること無く、かまたはその他のを受け入れられる一つの場所を造り出すのでは無い、(マタイ、18.20.ヨハネ、4.21.マラキ、1.11.ティモ第一、2.8.)まだなお教会の集合大会は、その他の何かによっておろそかにされるべきでは無い、(ヘブル、10.25.使徒、2.42.)そして秩序の中にある彼の崇拝は、神が奉仕を受けるのは、7日の内の一つであり、彼のサバス(安息)は彼に於いて聖なる日であり;それの日にキリストの復活があったのであり、週の最初の日であった、(コリン第一、16.1,2.使徒、20.7.黙示、1.10.)それには主の日であると呼び、そしてそれを注視するそして世界の終わりまで続いて行く、全くそれはクリスチャンの安息(サバス)日はである、週の終わりの日は廃止された、そしてクリスチャンのサバス(安息)は恭しい手法で守られるであろう、わたしたちの心に準備させるであろう、そして手前の事がらの秩序で、全世界的な肉体的の目論見の中でわたしたちの休む日はあるであろう、(イザヤ、58.13.ネヘミ、13.15,-23.)そして度々起こる厳かな教会集会で、すべての公けのそして私的な宗教義務は;聞かれる、中立の、そして授与し、そして読んでいる中を、かまたは聖書を、(黙示、1.3.ヤコブ、1.23,25.ローマ、10.14.詩篇、119.15.ゼカリ、7.2.ルカ、21.36.使徒、16.13,16.)祈る人と一緒にいる時、公けのまたは私的に、そして必要な義務を、慈善愛で、そして慈悲で、少しで無い世界の講話で、かまたは偶像の休養でその他。

第XLI.条 公けと私的な祈り手について[編集]

祈り手は聖なる、宗教的、そして神の神聖な秩序である;(マタイ、6.7.ユダ、20.ヘブル、12.28.)そして全ての人々のために実行する義務で、神の律法によって;(イザヤ、55.6.ヱレミ、29.12. & 10.6,25.詩篇、32.6.マタイ、26.41.)そして神はただ一人で、(イザヤ、30.2.ホセア、4.12.ヤコブ、1.5.)そして他は無しの、聖徒でも天使でもどちらでも;そしてキリストの名による調停者でも;(ヨハネ、14.13,14. & 15.16. & 16.23.)かまたは少しの他の被造物でも。それとそれはすべての人々の生命で、(罪の許されない罪)高い或いは低い;(ティモ第一、2.1,-3.)特に大臣と行政長官、(ヤコブ、5.16.テサロ第一、5,17,25.テサロ第二、3.1,2.マタイ、9.38.)そして死なない聖徒たち、または地獄の霊たちでも無く、そして祈り手の存在を造った人々の理解した言語の。(コリン第一、14.14,-17.)そしてわたしたちはすべての事の必要に応じて祈るべきである、キリスト・イエスの中の神の御意志によって、真面目で恭しい手法で、すべての道に演壇で訴訟の可能な同意できる、かまたは祈り手の手法で、それはキリストが彼の弟子たちと、わたしたちに教えた、(マタイ、6.6.-14.)彼の聖なる福音で、それはすべての祈り手のただ完全な支配で;そして神の聖霊の助力によって、それはわたしたちの祈りが正確で無しに。(ローマ、8.26,27.)そしてこの宗教的奉仕のすべての人の限界の、そして神に仕える中で必修の、公けと私的の両方の、(テサロ第一、5.18.イザヤ、17.65.ヱレミ、18.14,15.ホセア、5.4.詩篇、69.6.)二つの最小の日の時に、すべてのクリスチャンは祈り手の家族で、そして嘆願と、仲裁と、そして父なる神に感謝を与えることによって、名前とわたしたちの主キリスト・イエスの調停の中によって。(ダニエ、6.10.詩篇、5.2,3. & 55.15-17.ゼカリ、8.21.フィリ、1.4,6.ティモ第一、4.5.イザヤ、1.15.黙示、5.8.)

第XLII.条 断食した祈り手による公けの貧しき謙遜者について[編集]

断食した祈り手による、公けの貧しき謙遜者、神の法令、彼の教会の民において指定された。(ヨエル、1.14,15. & 2.12,-18.歴代志下、20.3.)そして義務の非凡なある、特にそれは教会の一般的の尊敬を持った、かまたは国家のような、そしてそこからわたしたちは根拠にみなし定めの日が来た、目的の、そして方法で、その実行の存在で;罪からよくなる告白の、公けの善きと私的の断食した両方の。(レヴィ、23.27-29.エズラ、8.21. & 9.4. & 10.1.ネヘミ、9.1,-3.イザヤ、58.3,-6.)わたしたちの喜びから辞める、全くわたしたちの共通の食物、主の御前で分別のあるまた現実の悩ますわたしたちの魂の;かまたは幾つかの霊的のために断食したそして祈り手により神を求めるかまたは現世の善きこと、それは神はわたしたちに約束した、かまたはそれはわたしたちは必要に立つ神の御言葉と栄光をみなす定めの日の、真面目な、または神の法令で。(ヨナ、3.4,-9.ゼカリ、7.5.マタイ、6.16,-18.サムエ後書、12.21,22.エステ、4.16.)

第XLIII.条 家族、または義務の関係のその中について[編集]

両親、及び主人、は下位の種類の支配者である、そして統治者は、彼らの各自の裁判司法権そして家族である;そこで彼ら各自は関係した場所で、彼らの容量によって、そして機会である;(創世記、18.19.サムエ第一、2.23,-25.箴言、31.11,12,27,28.)そして神の言葉から従事させ、彼らの家族から満たされることを取るのである、そして支配と統治は彼らに神の御言葉によって、両方夫、良心、主人、そしてすべての他の関係する少しのそのような関係である;(ティモ第一、5.8.マタイ、7.9,10.コロサ、4.1.)彼らは神の宗教的実例で、彼らは家族を教えるのである:(エフェ、4.25,29,30-32. & 5.4.)彼らは注意深く見い出して安息(サバス)日を守るべきである、聖なるそして宗教的な奉仕は御言葉の教えから心から出るのである、公けのそして私的な祈りと一緒に、全く必要とするそして教える彼らを家族として関係ある者として、彼らの追随する神のそして宗教的な実例は、個人的なそして公けの宗教の行使である;(ヨハネ、24.15.エフェ、5.19,-21,25.同、6.1,2,-10.箴言、22.6,15.列王下、2.24.)そして彼らに勘定して呼ばれる、彼らが安息を使ったかどうか、そして御言葉の説教を聞いたかどうか、公けの祈り手と彼らは共にいたか、そして彼らのために秩序は祝福したか、そして彼ら家族のために、義務の内に怠ったか、かまたは力を神の、そして家族の宗教の内に使ったか、一つの主な条件の内に邪悪な無神論に、不敬虔な御言葉の中にそして家族も;そして肉体的な生ぬるい状況か、そして教会の内で無知の無学か、統治の一緒に侮蔑か;多くの教授の中で小さな利益があるか、または良心の実行で少しの義務が彼らの自らの家庭の家族でしているか。(箴言、29.15,21. ティモ第二、3.15.)

第XLIV.(44)条 子供の幼少期の死について[編集]

わたしたちは信ずる、それはすべての小さな子供の幼少期の死が、(すなわち)善きことと悪しきことの両方の選ぶことの出来る彼らの以前に、(イザヤ、7.16. & 8.4.)親の信仰者の生まれたそこから、かまたは親が不信仰者であっても、神の恩寵により、そして彼ら買い戻す人のキリストの功績が、そして聖霊の働きとにより救われたのである、(サムエ第二、12.19,-23.エゼキ、18.4,から21.列王上、14.13.)そしてそう目に見えない教会の仲間を作る事にあり、永遠の生命の歓びに属する;(マタイ、19.13,14.マルコ、10.13,-15.)わたしたちの主イエスが言った、「天の王国にそのような者が属する」(マタイ、19.13,14.マルコ、10.13,-15.)それから、わたしたちは、その誤った意見の、それはそれらのバプテスマ前に小さな幼児期に亡くなった者は、のろわれた者だと誤った誤謬でいうと終わりに結論で言う。

第XLV.(45)条 市民の治安行政官について[編集]

至高者は(:俗権の)王とその治安行政官を全ての世界に神の許しによって置かれた。(ローマ、13.1,-4.箴言、8.15.)自らの栄光と全ての人の上に一般の善き事のために、彼に権能があることの王や治安行政官の存在を神は許したからである。そして行政官の職務に合法的にクリスチャンが召されたなら一般に容認される遂行をされるべきである;(ペテロ第一2.14.箴言、20.26.)そして神は合法的に治安行政官の手に肉の剣の権能を与え、彼らの能く擁護することと意気地なしの事と邪悪な事の罰の権能を与え、(Ibid)そして正義の整備保存と、平和を、それぞれの王国や連邦国家に於いて健全な法律によって保たなければならない、(サムエ第二、23.3.詩篇、82.3,4. & 72.4,7.)そして彼らは必要に已むを得ざる場合に戦争をする事ができ、(伝道の、3.8.箴言、20.18.ルカ、3.15.使徒、10.22.箴言、21.22.)行政官によってなされる所は(伝道の、ティト、3.13.ペテロ第二、2.13,17.伝道の、10.20.箴言、21.22.)善き判断力の目的のため祈るべきである、(ローマ、13.5.)彼らのために主によって服従すべきである。彼らの上に祝福を祈る人は、(ティモ第一、2.1,2.)全ての合法的な道理に適った税金と彼らに捧げ物を与え、外国や国内に対する強力な敵に対して助力するためである。(マタイ、22.17,21. & 17.25,27.サムエ第二、21.16,17. & 23.15,16.)

第XLVI.条 良心の自由について[編集]

主イエス・キリストは、王の中の王、買い主たちの中の主である、(ティモ第一、6.15.使徒、10.36.)そして裁きが死ぬまでに早く無いので、有罪宣告が向こうに取り、そして罪が満ちたところで破壊があり;ただ主の良心があるのは;(使徒、4.17,-20.ヤコブ、4.12.ローマ、5.29.)すべての人々が奴隷状態よりは良心を保ちたいのは、そして奴隷の身分で、彼の特別な恩寵によって自由に置かれ、そしてそこから彼は奴隷身分で人々が良心を保ちたく無いのは、かまたは上に課する、すこしの強奪、暴政、何かを命令する、彼の言葉で御意志の現われに反対する者、(コリン第一、7.23.マタイ、15.9. & 14.9.)それは一つの支配に左を取り、すべての人の良心を支配し、統制し、導き、彼の霊によって助力し、そしてそこから少しの命令に従い、かまたは法令で、それを示した、かまたは彼の言葉で一致した、聖なるお告げか聖書の中で、良心のために真の自由のための盆に載せた。(コロサ、2.20,22,23.)そして暗黙のうちに必要とする信仰、そしてその絶対の目隠しした従順、良心の自由を破壊し、そして理由も同じで、それは両方に憎悪を持ち、(コリン第一、11.22.ペテロ第一、5.2,3.マタイ、15.14.申命記、12.32.ミカ、6.6,-8.使徒、17.25,29,30.申命記、4.17,19.コリン第一、20.18.)そしてあの良き終わりの振りをして、いつも、少しの男によって、行動を起こし、従順、かまたは実行をし、合法の善き、それはそれを臼で引かないで、聖書で上に権威づけられた、かまたは正しい理由でそれから同意の。(サムエ前書、15.3,4,11,-27.ローマ、14.10,12.ガラテ、1.14.フィリ、3.6.ヨハネ、4.22.サムエ後書、3.6,-8.)

第XLVII.条 結婚について[編集]

結婚は一人の男と、一人の女との間のものである;合法的に少しも男の、妻をたくさん持ってはならない、少しの女も夫をたくさん持ってはならない、どの時でも同じで、(マタイ、19.5,6.創世記、2.24.マラキ、2.15.)そしてそれは合法的にすべての種類の人々の結婚に当て嵌(は)まる、その人は裁きの可能な彼らの同意を与える。(コリン第一、7.36.ヘブル、13.4.ティモ第一、4.3.出エジ、22.16,17.創世記、29.23.)しかし結婚は血族近親結婚は無効にしなければならない、かまたは親縁結婚、御言葉の中で禁じられている、(レヴィ、18.6.から章の終わりまで.サムエ第二、13.14.創世記、3.16.申命記、22.28.エフェ、5.3.コリン第一、7.2.)または少しも近親相姦結婚はかつても今も全合法的な少しの法によっても人は可能でないものである、そして当事者たちの同意する、男と妻は一緒に生活する。(コリン第一、5.1,4,13.創世記、6.2.)そしてそれは主の中に於ける結婚に対するクリスチャンの義務である;(コリン第一、7.39.民数記、25.1,2.コリン第二、6.14,-17.)そしてそこからこれらのものは真の宗教における冒瀆である~不信者、また偶像崇拝者と結婚することはすべきでない、またなお彼らの生命の中の個人の不信者の邪悪な、またなおまだ少しも異端を非難することをも維持しなければならない。

第XLVIII.条 誓いの合法性について[編集]

合法性的な誓いは、宗教的崇礼拝の部分である;(出エジ、20.7.申命記、6.13 & 10.20.)そこから個人が真理のうちに、そして裁きのうちに宣誓する、(ヱレミ、4.2.詩篇、15.4.)証人は神に呼ばれる、それは彼が宣誓し、そして真理によりかまたは偽りのによって彼が裁きを厳粛に彼に求めるのである。(ゼカリ、5.4.歴代志第二、6.22,23.)そしてわたしたちは他のいかなる名前によること無しに、しかしただ一つ神の御名によって宣誓する、(イザヤ、65.16.ヱレミ、12.16.マタイ、5.34.)わたしたちは合法的な行政官に前に呼ばれる時に、合法的な事柄の上に、神の御言葉によってそれは保証され正当なものである;(ネヘミ、13.25.列王紀第二、11.4,17.)そして誓いの言葉は平易な共通なものの感触の中から取り出すべきである、あいまいさなしに、かまたは心の隠し立てなしに、その中に神の聖なる御名を恭しくまじめに使うべきである;(詩篇、24.4.)そしてそのような誓いは、わたしたちがすべてのクリスチャンの信ずる、その時合法的に行政官によってそれからその上の裁判に招聘(しょうへい)され、それを為(な)してよい、(ヘブル、6.16.)しかし愚かな修道士と法王主義者たちの誓いは、そしてすべての偶像と無駄な宣誓は忌まわしく、そして神の聖なる御名を邪悪に冒瀆している。

第XLIX.(49)条 死後の人の状態と死からの復活について[編集]

人々の体は死の後、塵に帰り、(創世記、3.19.使徒、13.36.)見たところ腐敗し;しかし彼らの魂、または霊、それらは死なないしまたは眠りもしない、不滅に生存し、直接に彼らは報いを受け神に帰り、義なる者であった者の魂は聖なる完全な、キリストと共に彼らはパラダイスの報いを受け、そして光と栄光の中の神の御顔を見守る者となる、彼らの体の全償罪を待ち受け;(ルカ、23.43.コリン第二、5.1,6,8.フィリ、1.23.ヘブル、12.23.)そしてその邪悪な魂らは地獄に落ち、そこで彼らは苦痛に留まり闇に発言し、大いなる日の裁きのために取って置かれる、(ユダ、6.ペテロ第一、3.19.ルカ、16.23,24.)そしてその上に二つの場所があり、彼らの体から離れて魂は、聖書は何も言及がない、そして終わりの日は、そのような生きることを見出すように聖徒たちは在り、眠らない、しかし変える;(コリン第一、15.51,52.テサロ第二、4.17.)そしてすべて死んだ者たちは自身の体と一緒に起きあがり、そして他の一人もいない、違った品質の者はだけれども、(コリン第一、15.42,-44.)それは永遠から永遠へ彼らの魂が結合し;しかし体は不正にも、キリストの力によって、正しい裁きで分けられ、不名誉で起きあがり;(ヨハネ、5.28,29.ダニエ、12.2.)そして義人の正義の体は;彼の霊と、彼のカトリックの教会の頭で上の誉れで、(コリン第一、15.21,-23.黙示、20.5,6.)そして彼の栄光の体で慰められ、(使徒、24.15.フィリ、3.21.)そして永遠の命を喜び、永久の賛美を歌い、そして神のハレルヤを永遠から永遠まで神に捧げる。アーメン、(黙示、19,1,-7. & 14.57.)

第L.(50)条 最後の審判について[編集]

そして最終的に、わたしたちは信ずる、神は日を指定し、それらの中に正しき者の中にイエス・キリストにより世界の判事をし、(使徒、17.51.ヨハネ、5.22,27.ローマ、2.16.ティモ第二、4.1.)彼のすべての力、そして裁きは父から与えられ、、その日に、使徒にだけに堕落天使が裁かれるだけでなく、同様に全ての個人が地上に於いて裁かれる、キリストの法廷に於いて前に現われるであろう、彼らのの思考力に応じて彼らに与えられるであろう、言葉により、行為と、(コリン第一、6.3.ユダ、6.マタイ、12.36.コリン第二、5.10.伝道、12.14.ローマ、14.10,12.マタイ、25.32.)そして正に判決を受け入れ、彼らの体の中に彼らが行なうことによって、善きことかまたは悪しきことかまたはその時神のその目的によって、意志を公約の彼の慈悲の栄光の彼の選びの救いの中に、(ルカ、21.28.テサロ第一、4.17.詩篇、16.11.ルカ、12.32.)そして従わない邪悪な地獄に落とす彼の正義は;(マタイ、25.46.詩篇、58.10.)その時永遠の命のために行く義人のために、そして栄光と喜びをあふれるばかりに受ける;(ティモ第二、4.8.)しかし邪悪なものは神を知る事が出来ず、彼らにキリストの福音に従うことを申し出ず、永遠の苦痛に置かれるであろう、(ルカ、16.28.黙示、14.11.)永遠の罰のために破壊される、(ヨハネ、8.24.テサロ第二、1.8-10.黙示、20.10,-15. & 22.11,15.)主の臨在から、そして彼の力の栄光から、アーメン。

FINIS(終わり)

出典[編集]

印刷、A.D.1,679年。インターネット、A.D.2,006年。


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